漆黒の闇に、鋭くとがった刃物のような、大きく細い月が浮かんでいる。

人間界のものとは違い、いくぶん蒼みがかったその表面には、時折、気味の悪い赤

色が滲んだように現れては消える。

「まるで………血がしたたってるみてーだな…」

長い髪をひるがえし、空を仰いだソードが、ふと、つぶやいた。

(こんな夜は……………)

体のどこかが、熱を帯びたようにうずいている。血がたぎったように興奮して眠れない。

静めるには、壊すか、殺すか、それとも…………。

「チッ」

そこで、ソードは舌打ちした。魔界の夜を歩いてきた彼は、目の前にそびえる城を見上げ

たとたん不機嫌になっている。城の主が居れば赤く点るはずの最上階が暗い。

「まだ帰ってねーのかよ。シバのヤロー………」

魔王サタンの召集を受けて、上級魔族だけの集まりに出かけていったきり帰らないシバ・

ガーランドを待ちつづけて、すでに半月。夜毎こうして足を運ぶのも、いささか飽きてい

る。草一本生えない荒れ地にポツンと建った荘厳な居城に背をむけると、ソードはおもむ

ろに、今来た道とは違う向きへと歩き始めた。

(えっと………確か……サタンの浮遊要塞が飛んでやがるのは……)

あの辺だったか、と見当をつけて歩みをとる。

(べつに迎えにいってやるわけじゃねーんだけどよ…)

しかし、どうにも今夜は、あの男に会いたい。理由はないが、そう思ってしまったら、行

くしかない。呼ばれてもない者がサタンの城に近付くのは、無謀どころか死を意味するの

だが、それでも今すぐ行きたかった。

(あいつが悪ィんだ。黙ってオレを延々待たせやがるから!)

シバの冷たいような、それでいてどこか優しく穏やかな美しい横顔を思い出し、ソード

は、胸の奥がカッとするのを覚えた。

「けッ畜生。みてろ!いきなり押しかけてって脅かしてやるぜ」

急に彼は、思いついた子供っぽい悪戯心にワクワクした。普段は滅多に会うこともない上

級悪魔たちの列席する会議に、下級悪魔の自分が乱入すれば、ちょっとした混乱にはなる

だろう。

下級悪魔の分際で、と居丈高な連中が騒ぐのは、なかなかの見物だ。

(ついでに、気に入らねー奴を2、3発ブン殴ってやるか)

恐れ気のない顔で、ソードは背に隠した翼を広げた。

フワリと体が宙に浮く。彼が飛行を始めると、空にたむろしていた他の悪魔たちが、争っ

て道を譲った。

「へっ」

小気味よい笑顔で上昇すると、夜風に流れた長い髪が、頬にまといつく。上に昇るほど冷

たい風が顔を叩き、瘴気に濃く淀んだ大気が呼吸を奪う。

「く……ッ」

歯をくいしばり、ソードは更に翼に力をこめた。

何者も恐れず、やりたいようにやる。単純なことだが、魔界の中で、そこに至るまでの道

は険しい。

(ま、そのうちもっと自由になってみせるさ)

彼を恐れ避ける悪魔たちを見下ろして、ソードはわずかに唇の端を上げ、微笑に近い表情

を浮かべてみせた。

「オレだって、最初から力があったわけじゃねーんだ」

昔は……大変だった。シバ・ガーランドに会う前は、何も持っていなかったから、もっと

苦しかったのだ。

(けど今じゃ、あのソドム・バースだって、オレには手が出せねぇ)

あの巨きな上級悪魔に何度もいたぶられた体の傷跡を思い出し、ソードは唇を噛んだ。

『ろくに魔力もない下級魔族の分際で、生意気な口ばかりききおって』

一見豪快そうでいて、その実小心、姑息なソドムは、よくヒステリックに怒鳴っては暴行

を加え、彼の裸体に傷を刻んだ。

『分をわきまえてオレ様に従え』

『フン。誰がてめーなんかに。オレはな、気に入らねぇ野郎の言葉なんざ聞こえねーんだ

よ』

『貴様ァ……そんなに嫌なら無理にでも、思い知らせてやるぞ』

『やってみやがれ』

そうしてよく、独房に吊るされた。わざと命令を無視したこともある。あの頃の自分は、

いつも血まみれだった。怒りと不満と焦りだけが焼けつくように身を焦がし、ボロボロの

体に目だけが飢えたようにギラついていた。そしてなにより、孤独なことにも気付かない

ほど、心のどこかが淋しかった。

(そうだった……。初めて、シバ・ガーランドに会った時も……)

わずかな月明かりに照らされた魔界の風に頬を叩かれながら、ソードは懐かしいことを思

い出している。







その日もソードは、ソドムが統括する城塞の地下にある独房に戒められていた。魔力を封

じる環で、堅い壁に張りつけられた両腕が苦しい。したたか打ちすえられ、切りつけられ

た全身からは血が吹き出し、時とともに痛みにさえ鈍感になってゆく。

「ったくよォ……やりたい放題やりやがって…」

それでも、毒づく元気は残っていた。他にすることがないので、ソードはグチまがいの独

り言をいっている。

「見てろ。いつか、ぜってーブッ殺してやるぜ。あんなセコイ野郎を、いつまでものさば

らせておけるかってんだ」

ひとしきり悪態をつき鬱憤を吐き出した頃、いきなり物陰から

「へえ」

と複数の嘲る声がした。

「アンタに、そんなことができんのか?」

「なんだ?てめーら……?」

気がつくと、目の前に数人の悪魔が立っている。人間の形に近い者、獣身の者、しかし、

いずれもそう高い位の魔族ではなさそうだった。しかも、どこかで見たような気もする

が、よく憶えていない。

「オレになんの用だ?」

全く眼中にない顔で、ソードは不敵に笑った。一瞬、うろたえたような怒りが悪魔たちに

走る。目だけ見ると、どっちが動けないのかわからない。立場が逆転したような様に、中

の一人が耳障りなカン高い声を張り上げた。

「気に入らねんだよ?てめえの、その態度がよ?」

「へっオレの何がどうだって?」

「悪魔はなあ、力のある者に従っていればいいんだよ。下級悪魔は上級悪魔さまにおとな

しく頭下げてりゃいいんだ」

「フン。薄汚ねー連中だぜ。思い出したぞ。てめーら、ソドムのご機嫌取りやってる下衆

どもだな?いずれ出世させてもらおーと、バカみてーにケツふってやがる……」

そこまで言った時、ソードは、猛烈な吐き気と痛みで、げふっと血を吐いた。目の前の一

人が、持っていた魔具で腹に一撃入れたらしい。

それを合図に、彼等は散々に蹴りや拳をいれる。ただでさえ、瀕死のようなソードの身体

が、ますます凄惨な色になる。しかし、それでも、ソードは嘲笑っていた。

「この野郎………!!」

そう呻き出したのは、殴っていた悪魔のほうだ。

「ソードきさま……いつまでもふざけてやがると本当に……殺すぞ?」

「てめーらにオレが殺れるのかよ?」

「ふん。オレたちはな、ソドム様のお許しをいただいてここに来てるんだ。おまえを好き

にしてもいいってな。生かすも殺すもオレたち次第なんだよ?わかったら、おとなしくソ

ドム様に服従を誓え!泣いて詫びてみろ!そしたら許してやってもいいんだぜ?」

「へっ……ソドムらしいやりかただぜ」

「なんだと?」

「セコくてインチキで、闇討ち好きで、つまらねー地位と名誉にしがみついて……オレ一

人シメるのに、てめーで来る勇気もねーし、こんなザコども使いやがる……」

「こ…の……言わせておけば……」

「まあ、待てよ」

怒りで我を忘れそうになった悪魔を、仲間の一人が止めた。イヤミなほど慇懃な顔をした

小狡そうな悪魔だった。

「このバカに教えてやるには、殴るだけじゃダメなようだ。方法を変えよう」

「変える?」

「せっかくだからオレたちも、もっと楽しむのさ。拷問ってのは痛みだけじゃねえだ

ろ?」

「はーん。なるほど」

嫌な笑いが辺りにたちこめ、何かを互いに了解しあった彼等が、ぐいとソードの細い顎を

つかんだ。

「いいことして……遊ぼーぜ?オレたちと……」

「……?……何言ってやがる」

しかしソードが、その意味を考えるより早く、一人が、両足の脛を思いきり蹴り上げた。

「ぐうッ」

一瞬、痛みで全身が痙攣する。その瞬間、麻痺した下半身を両側から抱え上げられ、衣服

が引きちぎられ、こじ開けられた両足の間に一人が立った。

「て……てめーら………なにしやがる?!」

「何って……ここまできたら、やることは一つだろーよ」

「そーそー」

(チッ……この下衆がぁ……)

ゲラゲラと囲む笑いに、ソードは初めて強烈な嫌悪を感じた。悪魔同士に守るべき禁忌な

どない。悦楽のためならなんでも許される彼等にとって、こんな行為自体はさして珍しい

ことではない。それでも場合が場合だけに、ソードはかなりアタマにきている。けれど、

逃れる術も残念ながら今はなさそうだった。

「いーじゃねー?初めてでもねーんだろ?」

「るせー!!そーゆーモンダイじゃねーんだよッ!このや…………ッ」

股間に立った悪魔が、差し出された蕾みを指の腹で確かめるようにゆっくりと撫でた。ゾ

クリとする感覚がソードの全身を貫き、ビクンとのけ反る。その感触を楽しみながら、男

は谷間に沿って指で何度も撫で上げた。

「へえ。きれいなピンクだねえ。案外アンタ、まだバックバージンだったりして」

「けッ……ホメたってなぁ、何もサービスしてやんねーぞ!」

「かまわねーよ。サービスは、オレたちがやってやるからさぁ」

男の、鋭角を保った巨大な切っ先が徐々に近づく。まるで刃物で脅されているように、

ソードは声をかみ殺し、肩をずりあげた。

「お……おいッ本気かよ?シャレになんねーぞッ」

「だって、オレらシャレじゃねーもん」

周りの悪魔が、更に腰を持ち上げ、体を折らせ、両足を思いきりよく開かせる。上半身だ

け肩の部分で壁に固定されたまま、身体が宙に浮き、恥部が晒しものになった。

「て……てめーら……」

さすがに羞恥と怒りでソードの頬がひきつっている。その頬をイヤガラセのように撫でな

がら、男は性急に挿入した。

「ぐあッアッアアアアアッ」

熱く硬いそれが下肢を引き裂き、激痛とともに力ずくで服従を迫る。巨大なモノに蹂躪さ

れ、絶叫とともにのたうつ下半身に、物見高い下世話な視線がニヤニヤと集まった。

「どうだ?……ソード?感想は」

「……ッ……こんの……ド下手くそ野郎!!マトモにやったことあんのかよ?!」

「なにィ?!」

腰で突きながら絶頂を堪能していた男が、狂気じみた声を上げる。しかし、それさえも、

周りの悪魔たちには愉楽に近い。ケタケタ笑っていた小柄な一人が、すでに終えた男を、

もどかしげに押し退けた。

「そろそろ代われよ。オレがさぁ、ちゃーんとイかしてやるからさ」

「けッこんなんで達けたらな、どんな淫魔も商売あがったりだぜ!!」

「あいかわらず口が減らないねェ。オレのほうはその淫魔出身なんだが………ま、ゆっく

り遊ぼーぜ」

男は彼の固く引き締まった尻を押さえ、両手でつかむ。そのとたん、これまで感じたこと

のないような妖しい感覚が襲い、感触から逃れようとソードは必死に腰をよじった。

「アンタをさぁ、オレの物にしてやるよ。皆もそれを望んでる。アンタの篭絡された可愛

い顔が見たいってさ」

「や…やめろッ殺すぞてめーッ」

初めて、ソードはハッキリと殺意を感じた。下等な悪魔には勝負を挑む気など起きない彼

が、この時、心底、殺してやりたいと思ったのだ。

(くそ……ッな……んで……)

淫魔は、簡単な呪文をとなえ、ソードの身体に魔法をかける。

「アンタ、よく見ると案外キレイだねェ。オレもヤりがいがあるってもんだ。心配しなく

とも、すぐにアンタも気持ちよくしてやるよ」

「こ……この変態野郎!!」

けれど、ささやかれた声がすでに遠い。淫魔の唇が彼自身をくわえ吸い付くと、かつて感じ

たことのない感覚で体が火照り、受け入れた部分が、刺激を求めてうずいた。

「く……あッ……アッアッ…」

ソードは知らず腰をよじり、切ない悲鳴を上げる。そののけぞった胸に己の胸を合わせ、淫魔

は更に激しく腰を動かし始める。全身を苛む狂った快感が押し寄せ、ソードの意思を無視し

て体が勝手に狂喜していた。

「畜生……!!てめーら、ぜってー全員ブチ殺してやるぜッ」

しかし容赦なく魔物が身体中に入り込み、その波に抗う術がない。自身を舌で吸われ、後ろ

から突き上げられ、口唇を嬲られると、理性がとんだ。

「ああッ……アッアッ」

髪を振り乱し熱い吐息を撒き散らし、ソードの怒張したものはますます透明な体液をほとば

しらせる。その激しい感じ方に、悪魔たちはやっと満足げに笑った。

「みろよ。いい声で啼きやがる。これでやっと小生意気なバカを落としてやったぜ?」

声が遠く、近く、聞こえ、朦朧としたまま、ソードは射精していた。

下卑た笑いが辺りを囲み、それから、そこにいる悪魔すべてが彼を犯した。精液の異臭、嬌

声、悲鳴。まるで、サバトだ。愛の意味など微塵もない。残虐な喜びと征服欲と身体の快

感がすべての営み。何度もいかされ萎えた全身を更に苛まれ、屈辱に意識が混濁する。

それでも不思議に、どこかが覚めた。

(感じるもんは仕方ねー)

好き放題に陵辱されながら、ソードは、ぼんやり思っている。もともと、悪魔だ。心は身

体で、欲望の下僕だ。そんなことはわかっている。身体がよければ、それでいい。なのに

………

(なんで……許せねぇんだろーなァ)

流されてしまえば楽なのに、彼の悪魔らしからぬ純粋なプライドが、それを拒むのかもし

れない。

(どいつも、こいつも、くだらねー連中ばっかりで………)

その感情が、ひとつの淋しさであることに、彼自身は気付かない。ただ、なんとなく、つ

まらなかった。

悪魔には二種類しか、いない。魔力と権力を振り回す暴虐な悪魔と、それに怯え媚びへつ

らう矮小な悪魔と。そして、どちらも、バカバカしいという点で、ソードにとっては同じ

だった。

(あーあ………誰かと……話がしてーな)

ふと、そんなふうにも思う。けれど、話したい相手など、どこにもいないのだった。

その間も、取り囲んだ悪魔たちは、しつこく彼を弄び続けている。

(はやく、やめねーかバカヤロウ!!)

身体中をまさぐられ短い悲鳴をあげながら、ソードは心に唾棄した。

(こいつらに比べたら……まだ天使どものほーがマシってもんだぜ)

神の操り人形にすぎない、と思っている彼らもまた、ソードにとっては、つまらない相手

には違いないが、天使たちには、節操があるだけマシだった。少なくとも、こんなリンチ

が行われていれば、誰かが止めてくれるだろう。実際助けられたらそれも屈辱と怒り出す

彼だが、それでも、他にも何百と悪魔がいるハズのこの地下で、臆病な罪人どもが、皆息

を潜めて、この惨劇を窺っているのかと思うと、無性にハラがたった。

この砦の支配者は、ソドム・バースだ。彼に逆らえる者など、ここにはいない。いるとす

るなら、ソドムと同じか、それ以上の上級魔族にちがいないが、彼らも面倒を恐れてかか

わり合いになろうとは思うまい。悪魔にとっては自分がすべて。それ意外は正義もなに

も、どうでもいいことなのだ。それが、悪魔のくせにまっすぐなソードには我慢ならな

い。

(ああ、くだらねえ)

エスカレートした邪鬼どもは、ソードの体に更に何か魔道具を用いて苛もうと企んでい

る。

(畜生………こいつら……必ずブッ殺してやる!!)

しかし、その前にこっちが先に殺されそうだ。ここで殺されるくらいなら、自分で死ぬほ

うがよほどマシだが、それではもっと癪にさわる気もする。

(たかが……こんな事で……死んでたまるかよ……)

しかし、逃れる術がわからない。永遠に停まったような時間が過ぎ、とうとう気が遠くな

りかけた時。

不意に、辺りが静かになった。

「何をしているのだ?おまえたち……」

今まで感じなかった誰かの気配をともなって低い静かな声が響いた。透明な美しさがある

にもかかわらず、とんでもない威圧感がある。一目で、高階級の上級魔族と知れた。

「あ…あなたが誰であろうが、オレたちはソドムさまの許しで……」

「ほう…。いつからソドム将軍は、ご自分の部下を勝手に私刑にかける権限を持つように

なられたのかな?」

態度は丁寧だが、恐ろしいほど底冷えのする魔力を感じる。

「我々悪魔にも厳しい軍律がある。軍規違反は、将軍といえども例外にはあたらない、と

いうことは当然知っておられよう。上部に知れたら少々やっかいなことになるのではない

かな?」

分が悪い。とっさにそう感じた彼等は、慌てて踵を返すと、身繕ろいも中途のままに、ク

モの子を散らすように逃げ去ってゆく。後に残ったのは、ソードとその男の二人だけだっ

た。

「大丈夫か?」

彼は近付き、ソードの頬に軽く手をかける。そのとたん

「触るな!!」

がっくりと下がった頭から、途切れかかった声が出た。

「今、オレに触ると、奴等と一緒に、てめーもブッ殺すぜ」

「………せっかく助けてやったのに、ずいぶんな言われようだな」

「るせー。だいたい、てめー誰だ?頼んでもねーのに割り込みやがって」

「ただの通りすがりだ。所用があってこの砦に来たのだが、たまたま、地下でものすごい

悲鳴が聞こえたので様子を見にきたのだ」

「フン。余計なお世話だぜ」

「なかなか壮絶な光景だったぞ。さすがに見かねて止めたのだが…」

「うるせぇな。いーんだよ。オレもそれなりに楽しんだんだ」

「その有り様でか?」

「べつに……何だっていーだろ。オレの身体だ。てめーにゃ関係ねー…」

乱暴に言い放って、ようやく、のろのろとソードが顔をあげる。勢いとは裏腹にぐったり

していた彼は相手を見るのも億劫だった。

(どうせ、上級悪魔だ。ソドムの野郎と同じ……高慢ちきで偉ぶっていて、自分の出世し

か考えてねーし、卑しいくせに大義名分ふりまわしやがって………)

ところが、

「………あ……」

「どうした?私の顔に何かついているか?」

そう言って微笑んだ目の前の瞳に、ソードは思わず吸い寄せられた。

(なんなんだ?こいつ…………)

今まで、こんなに美しい悪魔を見たことがない。どちらかというと美醜に無頓着なソード

ですらそう思うほど、彼の姿は、悪魔というより、むしろ上級天使に似ている。悪魔の自

分が美の基準を天使にもってくるのは間違っているのかもしれないが、それでもソードに

は、そんな気がした。茶色がかった金の混じった明るい黒髪は、ソードよりも長い。涼や

かな瞳は知的で冷静で、穏やかだった。

「とにかく……」

と彼は言った。

「一度、ここを出たほうがいい。その体、手当てしないと本当に死ぬぞ」

「けッ誰が死ぬか!くだらねー。あんな奴らに殺されるほど安い命は持っちゃいねぇ。い

ずれ、奴らはブチ殺す。ソドムの変態野郎もな」

「今のおまえにソドムを殺すのは無理というものだ。見たところ、ろくに魔法も使えま

い」

そう言うと、彼は長い指先で軽くソードの唇に触れた。

「な?!」

しかし、噛みつこうとしたソードは、すぐに気付いてはっとした。さっきかけられた体の

熱がこの瞬間に引いている。

「淫魔など低級な魔法しか使えない。簡単なアンチマジックですぐ無効にできる。こんな

ふうにな」

「やかましい!そのうち強くなるんだよ。どんな悪魔よりもな」

「なるほど。強靱無比なのは、その気位だけか」

「シャレたこと言ってっとブッ殺すぞ!!」

くくくっと目の前の男が笑った。笑うとひどく優しい顔になる。そんなに優しい悪魔の顔

を、ソードは見たことがない。彼は笑顔のまま言った。

「おまえ、面白いな。ソドム・バースの部下なのか?名はなんという」

「ふん。知りたきゃ、てめーが名乗るんだな」

「これは失礼した。私はシバ……シバ・ガーランド」

「シバ……?おまえが……?」

さすがに、名だけはソードも聞いたことがある。まともに闘えばサタン以外は勝てないだ

ろうと言われる高名な上級悪魔だ。

「そんな有名貴族サンがオレなんぞに気安く口きいていーのかよ?魔界中の噂にされる

ぜ?」

「なんだ。おまえ、とんでもない無礼者かと思えば、そんな謙虚な口もきけるのだな」

「この……ツラに似合わず、いちいちムカつく野郎だなテメーは……」

「それで?おまえはなんというのだ」

「オレ様は……」

言いかけた彼は途中で言い淀んだ。いつも聞かれる前に名乗りたがる自分らしくもない。

しかし、何かさっきから心が揺れている。俯いたまま、小さな声で彼は言った。

「……ソード…」

「ソードか……。ではソード、私がバース将軍に頼んで、おまえを引き受けてやろう

か?」

「余計なことすんじゃねーよ!!てめーの始末はてめーでつける」

「アテはあるのか」

「ねえっ」

今度は勢い良く叫んだソードに、シバはもう一度軽やかに笑った。また、あの優しい瞳が

微笑んでいる。その視線にぶつかると、何故かソードはうろたえて、

「仕方ねぇだろ」

とブツブツ言い訳でもするように、急に口籠った。

「悪いとしたら、弱ぇオレだ。全部自分のせいなんだから…オレが自分でなんとかしねー

と……」

どうして、そんなことを言ってしまったのかわからない。ただ、この男の前で嘘はつきた

くなかった。名乗る時同様、今度は逆に、いつもは絶対に隠し通すはずの心まで、すべて

吐き出してしまいたい気になっている。

(なんで……オレは……)

思ったとたん、パチリ、と軽い音がして、腕を張りつけていた魔具が簡単に外れた。

「な?!……なにしやがる!余計なことすんじゃねーって………」

「言っただろう?ある程度の魔法が使えれば、こんな攻具は玩具だよ」

「だーかーら……そーゆーことじゃ……」

言ったまま、壁から離れた身体は、そのまま目の前の広い胸の中に崩れている。あまりに

も困憊した彼の肉体は、何もなければ、自身さえ支えきれなかった。

「てめー………はなしやがれ……」

それでもわめいている彼に、シバは自分の上衣をバサリとかぶせる。血と体液で凄惨に汚

れた身体を包み、軽々と抱き上げると、涼しい瞳がぐっと近付き、ソードは思わず押し

黙った。

「ソード………、今からおまえを私の城に賓客として招待しよう」

「な……なに、わけのわかんねーこと言ってやがる?!上級悪魔が下級悪魔を招くなん

ざ、聞いたことねーぞ……。それともなにか?オレを部下にしよーってハラか?」

それには応えず、シバは黙って歩き出す。その温かい胸に触れていると、ソードはなぜか

急に眠くなった。

「てめ……わかんねーことばっか言ってやがると……」

「口は元気なようだが…できれば安静にしたほうがいい。少し眠ったらどうだ?」

「…………」

この男が現れてから、何かが変だ。でも、何でもいい。このまま、こうしているのは悪く

ない。

そう思ったとたん、力が抜け、あとは何もわからなくなった。








「あ…………」

ぼんやり目をあけると、曇った視界に何かが見える。濃い絹糸のような流れが徐々に形を

なし、気がつくと、それは、長く美しい髪になった。豪奢な造りのベッドの中で、隣にシ

バが眠っている。軽い息遣いがソードの頭にかかり、その髪をつかむようにして、彼はシ

バの腕に抱かれていた。

「な?!なんだこいつ……やっぱり……」

急に我に返ると、全裸の自分に気がついて、ソードはますます慌てた。

「………?起きたのか?」

低いなめらかな声がして、シバが眠たげに片目をあけている。

「起きたって、てめーなぁ?!」

「もう少し休んでいろ。まだ傷が癒えてない」

「って、オレ様が寝てる間に何しやがった?!」

「騒がしいヤツだな……。気分はどうだ?そう悪くないなら、私はかまわんが……」

小さな欠伸をひとつして、シバは面倒そうに寝返りをうった。茶金の髪がふわりとなび

き、花のような爽やかで甘い香りがソードの鼻腔をくすぐっている。

(……あ?)

よく見ると、シバはしっかり下着を着込んでいるし、ソードの身体は汚れも傷もきれいに

消えて、間近に波打つ髪と同じ香りがしていた。

(体を接触させる治癒魔法?ヒーリングってやつか?こいつ……てめーの魔力をつかって

オレを治してくれんだ………)

広いベッドの上に起き上がり、ソードは辺りを見回した。

(ここが………コイツの居城なのか……)

荘厳な室内の高い窓から、魔界の空が見えている。

と、まだ眠そうな声がした。

「しばらく、ここに居ればいい。この城にあるものは何でも自由に使ってかまわない。私

の使い魔たちにおまえの世話をさせよう」

「て……てめーの世話くらいてめーで出来らぁ」

バカにされたのを怒っているようなソードの子供っぽい声に、シバは目を閉じたまま小さ

く微笑んだ。









シバ・ガーランドは、変わっている。

ソードがそう思うのだからそうとうかもしれない。

だいたい、トップクラスの上級魔族のくせに、使っている悪魔がお粗末すぎる。

(てゆーか、それ以前の問題だよな………)

女、子供、年老いた老衰寸前の悪魔。いずれを見ても使えない。

(まるで、救済施設のボランティアだぜ)

戦力と権力のためならば、少しでも強い戦闘用の悪魔か、狡獪な謀者か、小狡いおべっか

使いをはべらせておくのが普通なのに、ここには、そんな者が見当たらない。魔界とは思

えないほど和やかな気ばかりが漂っている。気だけではない。城の中は、まるで天界のよ

うな鮮やかな花が咲き乱れ、木々や青草が茂り、そして、ちょうど城の真上だけ、珍しい

ほど晴れた空が広がっている。暗褐色の風景ばかり見慣れていると、異世界にでも迷い込

んだようだ。明るい日射しの中で、妖精のような可愛らしい魔物ばかりが遊んでいる。

「なんなんだ?あいつらはよ〜?!シバの趣味なのか?!」

広大な中庭を独りで掃いていた、使い魔の一人である小さな老婆をつかまえて、ソード

は、片手に体を支える杖をつきながら、仏頂面で聞いている。

しかし、すぐには答えずに、老婆はソードの姿をジロジロと見つめた。

「な……何見てやがる!」

どういうわけかいつまでも上手く動かない右足を引きずって、その辺を飛び回る小さな魔

族にぶつからないよう注意しながら、ようやく芝生に腰をおろした彼は、つい頬を赤くし

て、右手の杖を振り回した。

「ははあ……わかりましたぞえ」

しわぶいた低い声で、納得したように彼女は言った。

「何がわかったんだ」

「シバ様があなたを連れてきなすった理由がですじゃ」

「理由……?」

「シバ様は……悪魔に向いてない悪魔ばかり拾ってきなさる」

「へ?向いてない?」

「そう。不正が嫌いで、卑怯なことが出来なくて、弱い者を見るとついかばってしまう…

…心の澄んだ根の優しい者ばかり。つまり、それは悪魔に向いてないということじゃ」

おまえさまもな。と老婆は付け加えた。

「………………向いてない?オレが?」

ソードは誉められたのか、けなされたのかわからない、複雑な表情を浮かべている。他の

悪魔の所行を日頃軽蔑してはばからない彼だが、向いていないのも困る気がする。

(やっぱ、いちおーオレも悪魔だからなぁ………)

できれば独特の美観とプライドを持っている、誇り高い悪魔でいたいのだ。たとえば……

…。

シバのように、と、うっかり思いそうになって、ソードは余計狼狽した。








「------って言われたんだけどよ」

昼の会話をくり返して、ソードはシバを前に、珍しく深刻な声を出していた。

「……オレは悪魔にゃ向いてねーのか?」

杖を放り出し、広いソファに足を投げ出した格好で、柄にもなく不安な顔をしている。誰

に何を言われても一笑に付す彼なのに、なぜかシバだけは無視できない。そういう自分に

戸惑って、二重に混乱している。

窓辺に立って暗い空を眺めながら、シバはふっと笑った。

「そうだな。向いているとは言えんな」

「なに------?!」

「だが、向いていないとも言えん」

「どっちなんだ?!てめー?!」

「わからんよ。私にも」

「オレで遊んでるのかてめーは!!」

くっくっとシバが笑う。ソードはむくれた頬で、不機嫌に睨んだ。その子供じみた視線を

軽く受け流し、シバは

「それより………」

と近付いて、ソファに投げてある足に屈んだ。香りの良い髪が、またふわりと浮かんで、

ソードの頬をかすめる。背の高いシバの、身長よりも長い髪。それを芸術的なほど几帳面

な、美しい三つ編みにしているこの悪魔に、ソードはつい見とれた。つい、毛先に触って

みたくなり、手をのばしかけた時、

「その片足…………」

と言われ、慌てて手をひっこめる。

「大丈夫か?理由はわからんが、私の魔法で治らないなら、かなり面倒な重傷だぞ」

「こいつか。こいつはな………」

ちょっと言いたくない顔をして、ソードは小声でつぶやいた。

「あの地下牢にブチこまれる前に、ソドムの野郎に折られたんだよ」

「ソドムに?」

ふーん。という目をしていたが、シバは小首をかしげた。

「彼にそんなことが出来たのかな。私の魔法を退けるなんて…」

「けッおまえの魔力もたいしたことねーんじゃねーの?」

ソードの憎まれ口に小さく笑って、シバは静かに足をさすった。

「痛むか?」

「あ?……ああ。痛いっつーか……苦しい……」

と正直に言ってから、慌ててソードは言い直した。

「じゃなくて!全然たいしたことねーよ」

「そうか」

シバは微笑っている。ソードはまた、ドキリとした。

(こいつ……なんで………)

どうして、この悪魔はそんなに優しい顔をするのだろう?どうしてシバには本当のことを

言ってしまうのだろう……。

(そういえば、昼のババアが言ってやがった)

『ここに居る者はみんなシバ様が好きなんじゃ。臆病な者ですら、シバ様のためなら命を

張れる。力を望む者ならなおさらに。…おまえも……そうではないのかえ?』

(オレは………わかんねーけど……)

不意に、黙っていたソードが口を開いた。

「やっぱ、世話になっちまったから……何か払わなくちゃな」

「払う?礼なら、いらない。おまえは私が招いた客だ」

「ウソだろ?悪魔ってのは、フツー、タダ働きはしねーもんだぜ。人間の願いを叶えるヤ

ツは代わりに魂をもらう。ギブ&テイクの契約だ。何かしてやれば、必ずそれに見合う代

償を請求する。それが悪魔だ。本音を言えよ。おめーの望みはなんだ?」

「…………」

「悪ィがオレはカネ目のもんは持ってねー。秘宝も魔具もねー」

「魔道具は、私の趣味じゃない。あれは、人間の魂を加工して創るものだからな」

「おまえ、悪魔のくせに、魂の武器を使わねーのか?」

「そんなことのために人間の魂を奪うのは趣味じゃない、と言ってるんだ。私は闘いには

自分の肉体しか使わない」

「変わってんな」

どこか嬉しそうな顔をして、ソードは笑った。

(やっぱり………面白いぜ、コイツ。こいつになら……)

機嫌良く、彼はそのことを決めた。

「何か働いてやってもいーが、今のオレは歩くのもやっとで、たいしたことは出来やし

ねー。………だから」

「だから?」

「体の相手をしてやるよ」

はじめてソードは、驚いたように目を見開く呆気にとられたシバの顔を、見た。

「な……ッなんだよ?!そのツラはよ---!?」

「いや……」

「べつに魔界じゃ珍しーことじゃねーだろーが!!それともてめーは女専門か?!けどオ

レだってなぁ…」

真っ赤になって怒鳴っている彼の目を、シバは意外にも真剣な顔で覗き込んでいる。

「………おまえは、そうやって誰とでも寝るのか?」

「あぁ?あんなもんに理屈があるかよ。誰でもってわけでもねーけどよ、とりあえずその

気になったら、どんな相手でも、だいたいいけるだろ」

「できなくはないが………。私は、どちらかというと本当に好きな相手としか興味ない」

「おめー………」

いきなり毒気を抜かれた顔で、今度はソードが呆れた。

「やっぱ、変わってんな。全っ然、悪魔らしくねえぞ」

「おまえに言われることではないよ」

「へ〜。で?オレはお気に召さねーってわけかよ?せっかく誘ってやったのに。それとも

何か?上級悪魔さまには、お呼びじゃねーってのか?けッお高くとまりやがって!これだ

から……」

「まあ、待て」

一気にまくしたてたソードを遮って、シバは苦笑した。

「私は嫌いな悪魔を部屋に招いたりしない」

「だったら………。オレはな、さっさと払うもん払ってせいせいしたいんだよ!もらいっ

ぱなしは性に合わねーし、だいたい気味わりーぜ」

「では、出世払いということにしておこう」

「あー?……あいにくオレ様は出世する気なんかさらさらねーんだ。いいからハッキリし

やがれ。やるのか、やらねーのか」

「ふむ」

と急に黙ったまま、シバはソファの上でわめいている存外華奢な悪魔を見下ろした。

「な……なんだよ?」

「そんなに力説するなら、ちょっとだけ、つきあってもらおうか」

「へ?………あ……んッ……う…!!」

端麗な顔が近付いたかと思うと、いきなり舌を差し込まれ、息が止まった。

(な……なんだぁ?……こいつ……し…信じらんねー……)

今まで行ったどんな行為とも違う。体の奥底から震え痺れてくるような熱い快感で、思わ

ず足の痛みも忘れてしまう。淫魔に犯された時もひどく感じてしまったが、これに比べれ

ば、まがいものの感覚だったと思う。歯列を割って入ってきた舌に深くからめられると、

ソードは、たったそれだけで達きそうになった。

「てっ……てめー!!だましやがったな!!」

頬を上気させ息を弾ませながら、ソードが怒鳴っている。唇の端から透明な唾液が流れて

いるのを、ぬぐいもせずに、彼はわめいた。

「私が何をだましたんだ?」

「好きな奴としか、やれねーなんて嘘だろう!!それとも、てめーの好きな奴ってのは、

その辺にゴロゴロいやがんのかよ?!こっ…こんな…上手い…」

「やれない、とは言ってない。それに……」

言いかけた言葉を途中でやめて、シバはソードの口許に指をあてた。ギクリとソードの身

がすくむ。しかし、人さし指で雫をぬぐってやると、シバは彼の額に軽くキスして笑っ

た。

「まあ、こんなところだな」

「こ……。まさか、これで終わりか?!オレをナメてんのかてめー!!」

「まあ、そのうちにな。もっと借りがたまったら払ってもらおうか」

「ちょっと待てコラ……………あ!!」

ポンと肩をたたいて立ち上がったシバを追おうとしたソードが、とたんに悲鳴を上げてう

ずくまる。

「ソード?」

異変に気付いてシバが振り向くと、ソードはなぜか、急に発作でも起こしたように身を縮

めてうめいていた。

「どうした」

「あ……足が……」

真っ青になってガタガタ震えている彼をその場に仰向けにして、シバは右の足をもう一度

診た。

(これは……)

さっきよりもずいぶん腫れている。そこにかけられた奇妙な魔法の気配に、シバの美しい

眉間が暗くかげった。










熱が高い。

あれから一ヶ月以上も続いているから、そろそろ限界かもしれない。人間だったらとっく

に死んでいる。

ベッドの枕元に腰掛けて、喘いでいるソードの額に、時々片手で治癒魔法をかけてやりな

がら、シバは空いた手で魔導書をめくっている。ジル・ハーブの書庫から借り出した、最

後の一冊だ。あれから毎日探し続けている。ここになければ、もう、回復の手がかりはソ

ドムしかない。しかし、あの悪魔がそう簡単に秘密を明かすとは思えないし、おまけに折

悪くサタンに従い天界攻略に出陣中で、留守だった。

押し黙ったまま頁を繰っているシバの手に、ふとソードの手が重なった。

「ずっと…何……読んでんだ?」

「ああ。ちょっとな。大事な…」

「そんなもん、いいからよ、窓開けてくれ」

「窓?窓なら開いている」

「そーか?……それにしちゃ熱い……熱すぎだぜ。頭が…おかしくなりそーだ…」

疲れた吐息をついているソードの額に手をあてると、さっきよりも更に高くなっている。

魔力で、シバは一時的だが熱をとった。

解放されて、少しほっとしたようにソードは笑った。

「わりーな……。おかげで楽になったけどよ」

「そうか」

微笑み返して、シバが病人の手を握る。強い魔力が苦痛を取り除き、冷やりとする大きな

手が心地よい。なんとなくその手を握ったまま

「なあ……」

と、ソードが言った。

「なんで、おまえ……オレなんかにかまうんだ?それとも、誰にでもそうなのか?」

シバは黙っている。無口というほどではないが、あまり多弁でもない。時々何を考えてい

るのか、まったくわからないこともある。それでも、そんな彼の手を握ったまま、ソード

は、からかうように言った。

「おまえ……ひょっとしてさ……他にトモダチいねーんじゃねーの?」

「おまえはいるのか?ソード…」

「いねぇよ」

言ってから、互いの視線を合わせて笑いだす。

(きっと………)

と、その時はっきり、ソードは理解した。

二人の魂の色が、似てるのだ。悪魔になりきれない悪魔。それゆえに孤独な悪魔。それで

いて何か、どこかの、高みを目指している。何者にも支配されないように、強くあろうと

求めている。

熱で潤んだ瞳を高い天井に向けながら、不意にソードが言った。

「シバぁ………今からよー………」

「うん?」

「……この間の続き……やろーぜ」

「続き?」

「もう……借り……だいぶたまったろ?」

ちょっと驚いてから彼はなだめるように、ソードの、汗で額に張りついた髪をかきあげ

た。

「…………そうだな。そのうちな」

「そのうちって………おまえ……いつだよ……?」

「せめて、自由に起きられるようになってから、だろ」

「んなこと言ってたら………出来なくなるかもしれねーじゃねーか」

「ソード……。どうした?おまえらしくもない。少し疲れたか?」

困惑したシバの瞳に、案外あっさりした笑顔で彼はくり返した。

「とぼけんなよ。てめーの体だ。オレにはわかる。マジでやべーんだろ?だから、今……

やろーぜ……」

「……困ったヤツだな。なぜ、そんなことにこだわる……?」

「よくわかんねぇけど……違うんだ」

「違う?」

「オレは今まで……セックスの意味なんか考えたことなかった。あんなもの酒を飲んだり

メシを食ったりするのと同じだ。この間輪姦されたのは、ただの暴力だ。でも……違う。

……おまえとは。もっと……遠くに行ける気がする……。だから………」

押しとどめる手を振り切って、彼は無理に起き上がった。

「だから……シバ…頼む。オレの息があるうちに……一度だけでいい」

黙って彼は、ひどく必死な目をしている悪魔をそっと胸に抱く。その肩に頬をのせ、ソー

ドはやや落胆してため息のようにつぶやいた。

「やっぱダメか。……じゃあ……その代わり、オレが死んだら……俺の仇をとってくれる

か?」

「仇は自分で討つんじゃなかったのか?」

「だから、出来なくなったら……だ。ソドムは……強えーからな。……今のオレじゃ、相

討ちにさえ持っていけねぇ。こんな頼み、おまえにしかしない。たぶん……一生に一度の

頼みだ……。おまえなら……ソドム・バースを殺すのなんて……簡単なんだろ?……ただ

……魔界の掟で…同士討ちができねーだけで………」

「では、もし私が死んだら、その時は、おまえが仇をうってくれるか?」

「何言ってやがる。んなことあるわけねーだろーが。おまえを倒せる奴なんて………魔王

サタンぐらいしか……」

「だからもし……そんなことが、あったら、だ」

「ああ………いいぜ。生きていたら……おまえの為に……サタンだって倒してやらぁ」

広い胸に抱かれたまま、ソードは諦めたように微笑んだ。

「畜生。オレも……ヤキが回ったよなぁ……。どーも…マジで……おまえに惚れちまった

んだな………」

ソードの、彼と同じくらい美しい漆黒の髪を撫でながら、クスリとシバが笑った。

「それは私のセリフだよ。約束しよう。ソドムはいずれ必ず、私が消してやる。……で

も」

と彼は付け加えた。

「おまえのことも助けてみせるよ」

「そんなに欲ばってると地獄に落ちるぜ?」

「ここは魔界だ」

「ああ、そうか」

ソードはちょっと笑って、力なく咳きこんだ。

(時間がない………)

いつになく疲れきった弱々しいソードに、シバは珍しく動揺している。

と、膝から滑り落ちて偶然開いた書の頁が、目を引いた。











(ああ………そうか……)

納得した後悔で、シバがため息をついている。

(これは……私の責任だな………)

ソドム・バースがかけたのは、つまらないほど弱い魔法だ。ところが、二重の封印魔法に

なっており、キーとなる魔法と重なることで真の魔力が発動する。そのキーとは……。

(治癒魔法とはな………。上手いカラクリだ)

傷を受ければ、治癒魔法を使う。しかし、その治癒の魔力が強ければ強いほど、強力な破

壊魔法に変質する、そういう魔法なのだ。

(私としたことが、上手くひっかけられたわけか。ソードを救おうとして、余計に苦しめ

たことになる)

ジル・ハーブの魔導書を閉じて、シバは窓の外を眺めた。相変わらず、魔界の空はどんよ

りしている。

(これが、ソドム・バースの深謀ならば、ヤツもなかなかの策士だが)

どうせ単なる偶然だ。そして彼がソードに会ったのも。

(出会ったのは…幸か、不幸か………)

何かを得たら、代償を払わねばならない。それが本当なのだとしたら、自分は何を支払お

う?

得たものに、見合うだけの代償は………。

と、魔導書の、最後の行が浮かんだ。

……このトラップマジックを無効にする方法は、治癒魔法をかけた者以上の魔力を持つ者

の手をかりねばならない……

(私以上の魔力か……。これでは、ソードに頼んだことが実現するかもしれんな)

少々憂鬱なため息をついて、シバ・ガーランドが立ち上がる。そして、正装すると、彼は

まっすぐに天界攻略の遠征空域へと飛んだ。










魔王サタンは、三対六枚の羽を持つ。その昔、神に最も愛された天使でありながら神を裏

切って魔界に落とされた、というが本当かどうか、わからない。残酷な少年の顔をした魔

王は、それがかつて天使だったということが、その美しい容貌に面影が残る気もする、と

いうだけの奇怪な支配者になっている。

謁見を願い出て、王座の前にひざまずいたシバを、魔王は、奇妙な笑いで迎えた。

「へぇ……。珍しいこともあるものだね。あなたが、わざわざ出向いてくれるなんて。ど

うした風の吹き回しなの?いつもぼくに逆らってばかりいるくせに」

シバは平伏したまま黙っている。魔界のことはすべて見とおす気味の悪い眼光で、サタン

は軽く笑った。

「そう緊張しなくてもいいよ。あなたの用事はわかっている。あの下級悪魔ソードとやら

を助けたいんでしょ?」

玉座の腕に自分のひじをのせ、けだる気に頬杖をついたまま、彼は存外あっけなく続け

た。

「いいよ。一度だけ、あなたの願いを聞いてあげる。その代わり、あなたにも、ぼくの約

束を守ってもらおうかな。これから先、二度とぼくの命令には背かない。どう?誓え

る?」

低頭したまま、シバは頷いた。それを眺め、サタンは少年特有の高い声でさも愉快そうに

笑った。

「それなら、安いものだよ。シバ・ガーランド。あなたがぼくの言うことをなんでも聞い

てくれるなんて……夢のようだね」

くすくす笑いながら、彼は玉座を降り、シバの前に立つ。そして、おもむろに己の手首を

噛み切ると、吹き出した鮮血を差し出してささやいた。

「さあ、帰ってソードとやらに飲ませるがいい。所定の儀式に従ってね。どんな魔法も無

効化するよ。だけど………」

わずかに見下したようにサタンは笑った。

「あなたも、物好きだね。あんな下級悪魔のために………ぼくに命を売ったんだから」

この時だけ、終始噛み締められたシバの唇に不思議なほど満足げな笑みが浮かんだ。後悔

などしていない。すべてを賭けても守りたい者が、出来てしまったのだ。代わりに、どう

も長生きできなくなった気もするが、でも、それでも良いと思う。

(私は……)

と彼は思った。

(己の命より、もっと大きなものを手に入れたのだから)

それには、命という代償を払っても、なお余るほど十分な気がした。









サタンの儀式は、神の儀式とは正反対に行う。まるで、かつて「光りある者」と呼ばれた

はずの彼を、天界から追放した神に対する復讐のように。魔界が闇におおわれてしまった

のも、過去の姿に対するサタンの意趣返しかもしれない。

銀の逆十字を架け、魔族の紋章を聖体とする。黒いロウソクを立て、聖水の代わりに血を

注ぐ。そして、魔王への礼拝として貢ぐのは…………。

グラスにサタンの血を満たし、シバは、ソードの肩にそっと手を置いた。






誰かに抱かれている。

ソードはぼんやりと感じた。はっきりしない意識は、どう足掻いても目覚めてくれない。

けれど、誰かが体を抱き、名を呼んでいるのがわかる。

「う………あ……?」

懸命に呼び覚ました視界に、ようやく見慣れた影が映ると、思わずソードは声を上げた。

「シ……バ……?!おまえ………」

「気がついたか」

ベッドの上でシバの腕に体を預けたまま、呆然として、ソードは眺めている。ことによる

と、夢かもしれない。そう思いながらも、一糸まとわぬ姿のシバに見とれている。

男なら誰でも憧れるほど、彼の体は理想的な筋肉が引き締まり、まるで彫像のように美し

かった。

「なんだかなー………。オレも……体には自信あったんだけどな〜…」

急に貧弱に見えてきた自分に、ソードはちょっと自信を喪失した顔で口籠った。

「べつに……おまえも、十分綺麗だと思うが……」

真面目な顔でシバが言っている。この時になって初めて、ソードは我に返って気がつい

た。

「んー………っておまえ……なんで、そんなカッコしてんだ?」

「実は…」

「そっか!おまえ……よーやくその気になったんだな!わかったぞ。いよいよオレ様の寿

命が近いんで、心残りなくやっとこーって……」

「相変わらず気楽な奴だな」

「ふん。いーじゃねーか。悩んだって結果は変わらねえ」

腕にぐったりと抱かれたまま、ソードは案外ケロリと言っている。

「そろそろヤバイってのは、わかってるぜ?」

「まあ、そうかもしれんが……。事情はそうだが、意味が違う。いいから私の話を聞け。

これから行うのは魔法儀式だ」

「魔法?!……………照れてんのか?」

「違う。だから…………こら、ソード!!」

その唇を無理に自分の唇でふさぎ、ソードは苦痛をこらえる、濡れたような瞳で笑った。

「るっせーんだよグダグダと。余計なこと言うんじゃねーよ。興冷めすんだろーが。った

くマジメなヤローだぜ。んなことより、早くしねーと…オレの意識が…もたねー………」

笑っているのが不思議なほど、本当に、ソードは苦しげだった。黙って、シバはグラスを

取り、昏倒しそうな彼に口付けた。

「……んッ…………」

ぴったり重なったソードの唇から、苦悶のような声が漏れる。仰向いたのどがひくりと動

き、ゴク…と何かを飲み下した。

「な……?なんだ?何飲ませやがった?てめー……」

「人間でいう薬のようなものだ」

「なぁ?!……って何だよそれ?!変なモンじゃねーだろーな?!」

「そうかもしれん。私にもよくわからん」

「こらこら---!」

「だから儀式だと言っただろう」

と、何か言い返そうとしたソードの力が、がくんと抜けた。

「…………あ……。体………変だぞ……おい……」

「どうなったんだ?」

「どうって………よく……わかんねぇ……」

体の芯がぼうっとしている。どこか夢うつつだが、感覚は敏感だった。股間に触れられる

と、すぐ達きそうになる。口に含まれると、全身が震えた。

「こんなの……卑怯だぞ……てめえ……」

「だからソード…」

「ま…いーけどよ……。その代わり……後でキッチリやりなおせよ?」

意外に上機嫌で、彼は身を委ねた。体に入った液体のせいなのか、シバのせいなのか、と

にかく、ひどく気持ちがいい。

(たぶん……コイツのせいだな……)

時折見せるあの微笑のような優しい抱き方をする、とソードは思った。なるべく体に負担

をかけぬよう気を使った動きで、感じるように入れてくれる。こんな悪魔は初めてだ。

「………アッ……あうっ…う……」

深く貫いた感触に、白いシーツを握り締め、のけぞったソードの喉が鳴った。体の奥に温か

い脈を感じながら、ずっと、このままでいたい、と思う。

ずっと、ずっと、このままで………。

その瞬間、何日も体を襲っていた不愉快な熱と痛みが消えて、ただ純粋な優しい快楽だけ

が体を包んだ。その穏やかな営みは、彼の飢えた何かさえ溶かしていく。

(魔界も悪魔も、捨てたもんじゃねー………)

今まで生きてきて初めて、彼は心から自由な気持ちで、そう思える気がした。










「こんな所で何をしている?」

魔界の夜の上空で、不意に腕をつかまれ、ソードはいきなり現実に返った。

「え?おおっ?!………シバじゃねーか!」

半月ぶりに見るシバ・ガーランドは、相変わらず月に映えた美しい姿で中空に静止してい

る。

「てめぇがあんまし遅いんでなぁ、どっかその辺でくたばってんじゃねーかと見にきて

やったんだよ」

「それはわざわざ御苦労なことだ」

シバが、微笑っている。

(ああ……)

とソードは思った。

「おまえ……同じ顔だな。あの時と」

「同じ?私がか?いつと?」

「ちょっと懐かしいことを思い出してたんだよ」

並んで飛びながら、ソードは笑った。

「おまえはあれから、オレに魔法と暗黒魔闘術を教えてくれたよな」

「魔法は、あまり出来がよくないようだが……。魔力を引き出す修行にはなっただろ

う?」

「まぁな。オレにこれほど魔力があるとは知らなかったぜ」

「おまえには素質がある。まだまだ強くなる。いつか私を超えるくらいに……」

「ちぇっあんましおだてんなよ。また調子にのっちまう」

シバに劣らぬ美しい漆黒の髪をなびかせて、同じくらい端正な頬に、ソードは真珠のよう

なキバを見せて笑った。それから、やや心配そうに

「おまえ、おかしいぜ?いつもサタンの所から帰るとオレを誉めやがる」

「そうか?」

「ま……いいけどよ」

そう言ってしまってから、ソードは自分の言葉で不安が募り黙ってしまった。なんだか、

ふと、シバがどこかへ行ってしまいそうな気がしたのだ。強い風の音だけが、二人の間に

流れている。しばらくしてシバが言った。

「ソード……おまえ」

「ん?」

「昔、しきりに絶対ブッ殺すとかわめいていた連中がいたな?あれはどうした」

「ああ。もう忘れた。だってよ、つまんねーザコなんか、もうどうだっていいじゃねー

か。オレは…昔欲しかった物は、今はもうほとんど持っているし……」

「欲しかったもの?」

「力と………それから………」

ニッと笑って、ソードは思いきりシバに体当たりした。

「ソード?!」

不意を食らって、シバの体がわずかにバランスを崩す。その首を押さえ、ソードは空中で

強引に唇を重ねた。

「シバ……今夜は……オレにつきあえよ」

「城に帰らないつもりか?」

「たまには、アウトドアでいーだろ?いい夜だぜ?」

ふっと目の前の優しい瞳が笑った。

「かなわんな、おまえには……」

夜空の二つの影が、重なるように堕ちてゆく。暖かい森の帳の中で、ソードはシバの広い

胸に頬を埋めた。

いつかオレたちも……別れの時が来るのだろうか?

ソードの不安に、シバが微笑む。

「たとえそうであろうと。その時も……。どこへ行こうと……何があろうと……。おまえ

はいつも自由でいてくれ」

決して私のようでなく。

最後の言葉は瞳にしまって、シバもソードを抱き締める。そこだけ空いた木々の隙間か

ら、まるで今だけを包むように、蒼い光が降りてくる。淡い月が二人の頬に静かな翳をな

げかけていた。

(終)