宇宙まで見えそうな蒼穹の下、見渡す限りの、…塩、塩、塩…
巨大な塩の断崖の頂に、伝説の、塩にされた女が立つ。
まるで、彫像だ。
「うへ〜…マジかよ…」
タカオはちょっと見上げ、すぐまた下を向いた。いっそホラーだ。でもそんなもんだ。この世の現実は、枯れた伝説より、もっと怖くて生々しい。
それに今はとにかく、眩しい。熱い。目が焼ける。
死海の南端から東へ、王の道に向って、塩ニンゲンの立つ塩山を通りすぎると、細くて長い谷に入る。
いわゆる枯れ谷。
雨季には川になるが、今は真夏で、ただの谷だ。足元には赤茶けた土ぼこりと…あちこちに転がる死体の骨の数より、強盗が多い。
「あーもーいっそ出てくんねえかな〜強盗〜…」
タカオはカラッポの汚れた麻袋を担いで、さっきから、のたのた歩いている。
「そしたら、何か食うもん分けてもらいてぇ…つうか〜分けてもらお〜ぜってぇ強引に〜」
ハラへった…。
さっきからソレしかアタマにない。最後の肉もパンも干しイチジクもなくなって、だいぶたつ。
通ってきた死海は、海水の3倍以上の塩分濃度で、サカナがいない。
ホントに死の海だった。
周辺の土は、岩塩だらけでイキモノがいない。
真夏の炎天下、なにもかもが塩辛く干からびている。
ただ、真っ青な空の下、見事なテーブル状に連なる茶色い岩盤と、ゲイジュツのような真っ白い岩塩の山々…
もう一週間も、それだけだ。
途中にあったソドムとゴモラは地元のいわくつき楽園だが、ただの廃墟だった。塩にされた女と同じ過去の遺物で、何もない。
このあたりに今もゴロゴロしてるのは、神と、略奪戦争と、魔のような平和の祈り、
それだけだ。
魔はどこにでもいた。
人も神も強烈な魔だったし、極まった純粋な祈りは、すぐに恐ろしい呪いに化けた。
過去も、そうだ。
今も、そうだ。
そのなかを、タカオはたった独り、必死に逃げ続けていた。
すっとぼけた単純な顔は、あまり必死には、見えなかったが。
「つうかもうこのさい魔とかでいいよ…食えるなら…。どうせなら食いであるから巨人とかいいよな〜…つうか神人でもいい…」
飢餓のあまり、神でも食える。と思った頃、レバノン杉の美しい香りが漂ってきた。
「神殿…?」
小さい。
しかも岩盤に張りついたようにポツンとあるくせに、不釣合いな最高級材の、香柏製。
「石やレンガじゃねえ…つーことは…」
ホンモノの、国家神殿だ。
なんでこんなとこに?
とは一応思ったが、もうどうでもよかった。トツゼン復活して、あぶなっかしい石段を駆けあがる。段というより、ただ、ところどころ飛び出たレンガだが、軽いブーツの先で蹴って器用に飛ぶ。
一息に、太い柱をのせた重い庇の暗がりに、転がりこんだ。
「頼むよ〜メシ食わしてくれよ〜カネならあるから最後の金貨。それから…あれ?」
ガランとしてる。
祭壇の上には、供物も祭具もない。神像もない。
ただ、神像の代わりに、立派な祭壇の上には、
薄いヴェールをかぶった少年が一人、ふてぶてしい格好で座っていた。
「金貨だと?……珍しいな。ふつうは量り銀だ」
やや低めの、少しかすれた声だ。
タカオは、バカみたいに突っ立って、暗い祭壇を見上げた。
「おまえ…カミサマ?じゃなくて…神殿聖娼?……いや…神殿男娼のほう…かよ?」
ヒトどころか、男か女かも一瞬、区別がつかなくて、タカオは数回、瞬きした。
星と月のピアスをつけている。
ブレスレットとアンクレットは小さな鈴で飾られていて、彼が動くたび硬い音を響かせる。
顔も服装もよくわからない。
ただ、ところどころ光る純金の装身具だけが、暗がりにキラキラした。
一瞬、目がくらんだようになって、
「じゃあ、あの…ごくごく一般的おネガイで悪ィんだけど…一晩よろしく…メシと…アレも…」
とりあえず言ってみた。
祭壇の上から、唇が、くくっと笑った。
「果たして…きさまにその資格があるかな?」
「え?…おまえ、神殿男娼じゃねえの?金さえ払えば誰とでも寝てくれる聖妾だろ?」
どこの神殿にもたいてい、いる。
神殿に仕える聖娼と呼ばれる、娼婦と男娼。実体はただの売春宿だが、支払った金は、神殿の奉納金になる。
国家神殿の場合、国の歳入になるが、同じことだ。神殿の豪華な柱も床も天井も、金ピカ祭具も、神像さえ、彼らが体で稼いだ結果だ。
この時代、いわゆる税はない。代わりに国家を運営する資金は、貿易と戦争と売春で稼ぐ。あとは無賃の奴隷労働力。どこにも、よくある光景だった。
ただ、本人が祭壇に乗ってる以外は。
少年は意地悪く笑っている。
「バカが。いちいち一晩かけて肉体労働しなくとも、カネなんか、いくらでも手に入る。今すぐ腕ずくでな」
「えー!?マジで?すっげーな暴力神殿だよココ。こんなんアリかよ」
タカオは素で驚いている。
「んじゃ、いい。アレはいいから、水と食いもんだけくれ。頼むよ〜死んじまうよ〜」
アッサリそっちは放棄して、へたりこんだ。カラの袋と足を投げだし、両手をついて情けない顔で天井を見上げている。
「…フン」
高いところに座ったまま、少年は、とたんに気分を害した声で、細いアゴをしゃくった。
「そのへんにブドウ酒と焼いた肉がある。勝手に食え」
「うお…マジ?なんだよ気づかなかったぜ…もういいよコレでいい…ぜんぜんアリ…つーか、すげーうまいなコレ…」
祭壇の下に這ってきたかと思うと、もうかぶりついている。
飲む音と食う音しか聞こえない。
神が無粋な無礼者を見るように、祭壇から、あからさまな不機嫌で、ヴェールの白い顔が見下ろした。
自分と同じくらいのガキだ。
と、ヴェールの少年、カイは思っている。ただの飢えた旅人にしか見えない。
しかし瞳が、蒼い。金貨を持ってることといい珍しい。それに格好が、戦士でも祭司でも商人でもない。
かといって一般的な牧者にも見えない。卑賤なくせにどこか優雅だ。上下一体のパンツルックの上に、左右に切り替えの入った、変わった短衣を羽織っている。このへんには見ない。他国で強盗でも働いて奪ったのかもしれない。
ジロジロ値踏みしていたら、ふと、視線が、合った。
肉をくわえたまま、自分を見上げている。
陽に焼けたその頬が、ぼっと赤らんだ気がした。
「なんだ?」
「え…いや…」
口から肉が、ずり落ちる。
暗がりにすっかり目が慣れて、はじめて、タカオは気がついた。
「…すっげえ…美人…だった…」
よくできた人形のようだ。アッシュグレーの淡い髪に金のティアラ、形のいい細い眉、ひどくきつい大きな真紅の瞳、対照的に可愛らしい小さな唇、透き通るような白い頬。
宝玉のネックレスをつけ、錦の長衣から覗く、すんなりした白い肩、鎖骨、腕、それにヒザから下の足が扇情的に見えている。
ビンも肉も放り出し、しばらく、見とれた。見とれたまま、口がぼんやり呟いた。
「やっぱ…あの…一晩オネガイしよっかな…」
「フン。よく考えてから言うんだな」
やっぱり、相手は、値踏みするように、ジロジロ見下ろしている。
不機嫌な視線だ。もしかすると最初に断ったのを怒っているのかもしれない。
タカオは座りなおして、改めて言った。
「えっと…何?どうすりゃいいの?腕ずくだっけ?」
「いずれにしろ、きさまには無理だな」
「なになに?すっげー難しいの?」
赤い瞳が、とたんに怜悧に見下ろした。
「オレと…勝負してもらう」
タカオは、わずかに躊躇した。
「勝負かぁ……うーん…まあいいけど」
「言っておくが、オレは負けたことがない」
「エ……そうなの?じゃあ…すげえ強ぇんだ…お前…」
躊躇が、消えた。
「わかった、いいぜ?」
「……強ければ、いいのか?」
「まぁな。いや待てよ…ってことは…オレがおまえの初夜権を得るわけだ?やっべーな…なんっかすげーワクワクしてきた。じゃ今夜はココ泊まるから。食わしてもらって寝てもらって、ついでに予言もしてくれよ。ちゃんと割り増し料金払うから」
「バカか、きさま…どんな勝負かわかっているのか」
赤い瞳が、冷笑を通りこし、罵倒に近い声で笑う。
今度はタカオがニヤリと笑った。
「神と、闘るんだろ?」
バカにしていた色が、一瞬、消えた。
「きさま…何者だ?」
「へへっ…知りてえ?」
「……べつに」
ヴェールの少年は今度は酷く気分を損ねた顔で、そっぽを向いた。
タカオは、後ろで一つに束ねた蒼い髪を片手でぼりぼり掻いて、ちょっと面目ないように歯切れ悪く、でもあっけなく言った。
「つうか、この間、オレの国が滅ぼされちまってさ。行くとこねえから、彷徨ってんだよ」
なんだ。
という侮蔑した赤い視線だけが、落ちてきた。
「ヒッタイト系の傭兵か?だったら、この先に土器の町キル・ヘレスがある。そこへ行け。モアブの首都だ。今ならヘブライと戦争中だから、高額で雇ってくれる。ただし腕があればな」
あ、そう?という目をしてから、急にマジメな顔で、タカオは丁寧に答えた。
「せっかくだけど、オレ、戦争はやらねえんだ」
「では商売でもしに来たか?…それにしては手持ちの商品も無いようだが…盗られたのか?マヌケなことだな」
「いや、オレ、バイヤーじゃねえし」
「では…なぜ、こんなところをうろついている」
「うろついてるわけじゃねえよ。逃げてるだけさ」
「逃げる?」
「ああ。どこもかしこも戦争だらけじゃねえか。だから、テキトーに歩き回って、逃げてんだよ。殺し合いなんかやんねえよ。だからヤバくなるたび逃げまわってんだよ」
「フン。ただの腰抜けか」
「そりゃ…試してみりゃわかることだぜ?」
蒼い瞳が、急に熱を帯びて輝く。ぬけぬけと見つめ返す、したたかな色。そのうえ、信じられないほど純粋に透明だった。
「ここで、闘んの?」
連れ出された神殿の外で、くるぶしまで水につかりながら、タカオが意外な顔をした。
高名な枯れ谷、ワディ・エル・ヘサー。
トクベツな場所だ。「枯れ谷」なのに、夏も時折、神の気まぐれで水が湧く。
水満ちるとき、底にぎっしり沈んだ赤い石が、夕陽に反射して、川のすべてが深紅に輝く…
夏なのに、今も真っ赤に染まった水が、外来の客を試し、たぶらかすように流れていた。
川の中央で、距離をおき、二人が対峙する。
血飛沫のような深い赤。…まるで…延々続く…血溜まりの海…
なぜか…綺麗だった。
残酷に怖ろしいほど。
血の海も、少年の瞳も、同じ色に輝いて。
「オレは…戦争は、嫌いじゃない」
鮮血の瞳が、微笑んだ。
「ええ?なんで?…嫌じゃねえか。だって人が、大勢死ぬんだぜ?大好きな奴も大嫌いな奴も、…善い奴も悪い奴も…関係なく…みんなカンタンに……死んじまうんだぜ?」
「だが…人間の、本性がむき出しになる。平和なときには薄められ眠ってるか…巧妙に隠され…時折短く噴き出しては姑息にチラチラ見えるだけのものが…」
酷薄なのに、このうえなく真摯な声と瞳。
「くまなくまっすぐ現れて…人間の善も悪も…美しいものも醜いものも…均しく激しく輝きだす…その瞬間が、オレは、とても好きだ…」
紅玉髄のような瞳が…血の海を照り返し、燃えたぎる炎そのものに見えた。
灼熱の、赫…
そうか、血じゃない、炎だ。これは…
タカオは、このとき、はっきり感じた。
目の前のものを猛然と焼き尽くしながら、そこに在るはずの真実のカタチを探し求め、叫び荒れ、狂奔し続ける。
微塵の嘘も許さない、仮借ない誠実。
正義なんて、大嫌いだ。
そうつむぐ唇で、誰よりも偽善を憎み、底意地悪い姑息を嫌い、ありもしない純然たる「正しいこと」を愛したがって、得られずに、大声で啼く。
あまりに誠実で些細な穢れも許せないから、彼には、何も愛すものがない。
だからせめて、人間の、本当の姿が見たいのだ。
すべての取り繕いを剥ぎ取った、偽善も偽悪もない、人そのものが見たいのだ。
闘気と一緒に伝わってきたその心に、タカオは一瞬、圧倒された。ほとんど一目惚れの激痛みたいに、撃ち抜かれていた。
「やっぱ…なんか…綺麗だな…」
「人がか?」
「いや…おまえが…」
「なに?」
また、怪訝な瞳が、見つめ返す。
タカオはほとんどしょぼくれた眼で、潤んだように、呟いた。
「…ごめん。謝るよ…オレ、まちがってた。ちょっと寂しいから、おまえと一晩寝ようなんて…」
「なんだ、いまさら命乞いか?」
「うん」
はっきり頷いたその言葉が、まったく意味通りではなかったのを、神殿の少年・カイは知って、驚いた。
「オレが勝ったら、頼むよ……オレと一緒に逃げてくれ」
◇to 2◇
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