結局、タカオは…エキシビジョンマッチには行かなかった。

代わりに、庭の見える自宅の廊下で、せっせとオレのリハビリに付き合っている。




「カイ、大丈夫、ゆっくり行けよ」

そう言われて踏み出す一歩が、信じられないほど重い。ほとんど自分の足じゃない。大方こんなことだろうと…予想はついていたが……いざ直面すると…この…有様は……

「大丈夫、大丈夫!いいぜ、おまえ、昨日より全然いけてるって」

…………木ノ宮の声が………上がった息にまぎれて聞きとりにくい。
道場に続く渡り廊下は、通常、20歩ていどの距離だ。ふつうなら数秒で渡りきるはずの細い板敷きが……遠すぎる。等間隔に柱があるだけで、ほかに、なにもつかまる所がないから、あえて、ここを選んだが…
板張りの戸までが…あまりに遠くて……目が…霞みそうだ…
このまま次の柱まで辿り着ければ…道場の入口まで…あと一柱…なんだが……

「カイ、もう少しだぜ!!頑張れ!!」

庭に降りた木ノ宮が、いちいち下から叫んでくれる。こういう応援にはうってつけの男だが。バトルと違って…ひどく情けない気がするから……複雑だ。
「……あ…ぐッ」
「カイ!?」
よろけたはずみに、おもいっきり転んでいる。
「……ッ…」
肩が、柱に激突して…息が…止まりそうだ…。

…傷がよけいに増えそうで、かなりブザマだな…と、転がったまま思っていたら、
「カイ!!ケガねぇか!?」
板張りに飛び乗ってきた木ノ宮に、抱き起された。
「ちょっと休もうぜ、そんな焦ることねぇよ」
「……ああ」
とはいえ、わずか数メートルで、ぜぇぜぇ言ってる自分に…幻滅しそうだ。できれば人目に晒したくない。木ノ宮には「わざわざ見てなくていい」と言ったのに、「なに言ってんだよ、カイ。自分と闘ってんだ、これだって立派なバトルだろ」と、まっとうな意見を返されて、思わず黙ってしまった…というのも…仕方ないんだが…。

「カイ、ゆっくりな。静かに行こうぜ」
タカオは…オレの背を支えて少しずつ歩かせ、壁のある所まで連れていくと、白壁を背もたれにして座らせた。
「疲れたろ、ほら」
いつもの笑顔と一緒に、スポーツドリンクとタオルを、ポンと手渡してくる。なんとなく…コイツの、あっけらかんとした顔を見つめていたら、
たしかに…試合の練習中みたいな気も…してこないことも、ない……。
「どうしたんだよ?」
「………いや」
つい視線を逸らしたら、木ノ宮は、もっと嬉しそうな顔で笑っている。

白い土壁が冷たくて気持ちいい。しばらくそうして、息が落ち着くのを待っていたら、何のためにこんなことをしてるのか…という疑問も少しは薄れた。

筋肉ってのは一週間使わなくとも縮んで固まるらしいが。一ヶ月以上ロクに動けなかったオレは、ようやく熱が下がって起き出してみると…ほとんど幼児なみにも歩けなかった。
もっとも…このザマは…それだけじゃない。

医者の話では…オレの体には、昔から自分でも気付かないうちに負っては自然治癒していた…軽度の打撲、骨折が数えきれないほどあって。筋肉の炎症も、幾度となく繰り返していて…いったい、どんな生活をしていたのかと唖然とされたが…。そんな状態で最後の試合に、胸椎を傷めた。それは…あれだけ受け身もとれず叩きつけられていたら仕方なかったかもしれないが。いつそうなっても、おかしくはなかったというから…そういうことなんだろう。
この体で、さらに負担がかかれば、何が起こるかわからないと、言われた。

つまり、警告されたように。傷と疲労から高熱を併発して…とうとう胸椎の神経まで…イカレたらしい。
こういうのは、ある時、均衡が崩れると……あっというまに、全部きてしまう。

どおりで胸が苦しかったわけだ。腕もうまく上がらないしな。
……などと考えていたら、まぁ、結論は見えた。


この麻痺は…たぶん、もう完全には、治らない。


木ノ宮に手渡されたボトルの冷気が、静かに伝わってくる。
喉を過ぎる甘酸っぱさと一緒に、しばらくコイツの家の…よく手入れされた盆栽や、素朴な置石に囲まれた穏やかな池を…眺めていたら……

…………自業自得か……という気もした。

たぶん、そうなんだろう。

これまでの、オレの生き方の……

もう一口、飲んだら…今度は少しだけ舌の奥に…苦いような味がした。

この先…
オレはいったい、どうする気だろう。
また…わからなくなりそうで、怖い。
ベイバトルは、たぶん、もう出来ないだろう。オレの望む形では。あるいは…やって死ぬか。
そう思うと、いまさら歩く練習などしたところで、何の意味があるのか、よくわからない。

そんなことをボンヤリ考えながら、庭を眺めていたら…
どこからか迷いこんできた小さな白い蝶が、目の前を、ひらひら彷徨って、置石の上に、とまった。

木ノ宮の自宅は、結構広い。建坪も広いが…敷地は千坪以上はあるだろう。武家屋敷の古い道場らしいが。この家と流派を守る木ノ宮の祖父は、オレの祖父とは大違いで…
こんな所で育った奴だから。コイツはいつも…天然で、道を誤らないのかもしれない、と思うことがある。少なくともタカオは…ヴォルコフみたいな男の手には死んでも乗らない。オレは…時々…無意識に間違ったりも、するんだが…。

オレの家は…面積だけなら、さらに十倍以上はあると思うが…化け物みたいな男と、機械じみた使用人しか住んでない。祖父は…国際機関にマークされた重要参考人だが、莫大な保釈金をアッサリ払って司法にまで手を回し、投獄などされなかった。裏社会のトップがよくやるように、今後また起訴されたところで、お抱え弁護士たちが、なんだかんだと引き延ばし、死ぬまで罪には問われないだろう。火渡エンタープライズとは、そういう巨大資本だ。

あんな家に…オレは戻りたくなどないし。寄宿舎さえ肌に合わず数カ月で出てしまった。
そんなオレが…
かなり頻繁に自分を場違いだと感じる、この家に…ときどき長居できるのが…かえって不思議な気もするんだが……

しょせん、ここは、オレの家じゃない。


「カイ」
「ん?」

急に…
隣から呼ばれて。
思考から連れ戻されて、そっちに視線を遣ったら。いつのまにか木ノ宮が、オレをじっと見つめていた。

「カイ……大丈夫か?」
「何がだ?」
「いや……ん〜?…なんとなく…」
一緒に座っていた木ノ宮は、自分でも意味不明な顔で、しばらく考え込んでいたが、

「…なんか…おまえの顔が…その…よくわかんねぇけど。……とにかく…大丈夫か?」

驚いた。
だが、オレは「ああ」とだけ応えた。
木ノ宮は、まだオレから視線を離さなさい。

それから、急に、オレの手をつかんで。

驚いたオレの目を見て、

びっくりするほど…優しい顔で、笑った。

「なぁカイ」
「……」
「いつまでも…ここに居て、いいんだぜ?いや、オレは、居て欲しい。じっちゃんだって、おまえのこと、すごく気に入ってるし」

なぜ…コイツは今…そんなことを言うんだ。

「おまえはさ…体がよくなったら、また、出てっちまうのかもしんねぇけど…。でもオレは、おまえにずっと居て欲しい。良くなっても…ならなくとも……ずっと居て欲しいぜ?歩けなくたって、もし、おまえが行きたいとこあったら、いつでも、おぶって連れてってやるよ。おまえは…そういうの、嫌がるかもしんねぇけど」

いったい…なぜ、なにを…言い出すんだ…コイツは…。


しばらく、オレは…自失したみたいに、コイツを見つめていた。

「えっへへ〜…なんてな。オレ、告ってんのかな。んー、やっぱ、告ってんだよな。な、カイ?」
「オレに…聞いてどうする」
「うん。好きだぜ、カイ。だから、ずっと一緒にいよう。いてくれよ。オレと、ずっと…」

初夏みたいに、タカオが、笑った。
つかまれた手から、安らいだ爽やかな温みが伝わり、冷えた心までも包まれてしまう。


コイツが…こんなだから…


オレは…

もしかすると本当に、ここに居られるかもしれないと…錯覚してしまう。ずっとここに居たいと感じてしまう…。
だが、それと同じくらい。

ここにいると……

コイツに守られて、コイツに甘やかされて…
このまま際限もなく弱くなって……オレは…自分を…見失いそうだ…

ただでさえ、何もかも失くしそうなのに…


だから。
もう帰るところさえ、どこにもないのに。

「よけいな世話だ。ここは…おまえの家かもしれないが、オレの家じゃない」

そんな言い方をするしかなかった。


「うん、わかってるけどさ」
子供みたいに手をつないだまま、木ノ宮が、笑った。
「それでもオレ…おまえに、居て欲しいんだよ」
「………」
いいかげん、オレの言い方に慣れきった奴が…とくに、ひるみもせず、こっちを見ている。
オレは…なんだか、どうしたらいいのかも、わからなくなって、ただその瞳を、見返している。

しばらく、そうしていたら…

「よし!」
木ノ宮が、パンと膝を叩いて立ち上がった。手をつないだままオレを見下ろして、笑った。
「じゃあ、また続きやるか。それとも、もう休む?風呂入りてぇなら、オレも付き合うけど?それともメシ?じっちゃんが、お粥作って置いてってくれたんだけど…」
「………続きをやる」
とりあえず、これ以上、骨だの筋肉だのが収縮するのを防がないと…本当に動けなくなってしまう。



ほんとうに、もう…オレは……どこへも行けなくなってしまう…



ふと、庭を見たら。
陽で温まったキラキラ光る花崗岩みたいな置石の上に、まだ、あの白い蝶がとまっていた。







■to be continued■