午後の…少し遅い陽が、差し込んで…
アーチ型の窓枠が…鈍い光を放っている。

タッセルに巻かれ左右の房掛けに振り分けられた、幾重にもドレープを垂らすベルベットカーテンの間から…冷たく取り澄ました幾何学的な庭園が見える。

それを背にして、
目の醒めるような明るい赤に、金糸で精巧な紋様を織り出した椅子の背を引き、さっきから給仕が待ち構えている。

適当に座ろうとしていた木ノ宮に、オレは…

「おまえは、ここだ」

先に椅子の男へ視線で指図しておいてから、上席から二番目を、指定した。

「え?…どこでもいいじゃねえか」

「いいから、ここに座れ」
「……?…わかったよ…」

怪訝な顔のタカオを、そこへ…据えてみる。

…あの男の…必ず座っていた場所だ。


あいつは、この席が、とても嫌いで……大嫌いで…
火渡の象徴のような、この席が……


「ん〜。なんっか、……落ちつかねぇなぁ〜〜」
もじもじと座りの悪い尻を動かしながら、タカオが、しきりに、あたりをキョロキョロ見回している。

やはり…
おまえでも、そうなのか…?
……と…思った。

そこは…
すぐ右斜にあたる最上席に、いつも祖父自身が。目の前には、その巨大レリーフが。周囲には、ズラリと並んだ、火渡一族の、延々つづく…顔、顔、顔…
すべての眼光に、じっと見下ろされる。法廷の被告席のような場所だ。ここに来ると、必ず、あいつは…火渡家の絶大で壮大で、暴悪な偉業と因習に圧迫され、踏みつぶされ、溺れ死にそうになるのを必死にこらえて…

ただ、じっと…かたくなに何かを守るみたいに、俯いているのが常だった。

いかにもヨーロッパ貴族の、中国かぶれを丸出しにした、派手に反射する漆塗りのテーブルの…
いたるところに嵌め込まれた夜光貝の光沢や、唐草紋様の金銀の蒔絵ばかりを食い入るように見つめて…

ほんとうは闊達で、どちらかというと口数の多い男が、ここでは…唖のように黙り込む。
いや、祖父の前では、あいつは…いつも…
「はい」「そうです」「…だと思います」
有能に、しつけられた犬のような返事しか、しない。
ごくたまに、
「いいえ、…わたしは……」
そう言いかけた、震えるような自身の言葉尻が…祖父のひとにらみで、水泡よりもあっけなく消されてしまう。
言葉にすら出来ない悔しさを、そのたびに、あいつが噛み殺しているのを、オレは…隣で、肌に感じて…

…それが、いつも…不思議で…不安で。
なにか…とても怖くて…。
だが、幼いなりにも、なぜか、その理由をどうしても聞くことは出来なくて…。事情は全然わからないのに、ただ、漠然とした嫌な緊張と恐怖だけが、すべてを覆った。

今思えば…それは、べつに、あいつが…ふがいない男だったから、じゃあない。あの祖父の前では、誰もが、そうだった。どんな男も、些細な抵抗すら許されず…祖父は、すべてを己の思うままに服従させる。
あのヴォルコフさえも……金と権力と…全身から滲み出る魔力のようなオーラで、相手を、ねじ伏せ、屈服させて…
……圧倒的な強さを、誇示していた。
その力で、この国の政財界をも牛耳る男だ…。世界を…手に入れようとする男だ…
祖父は…
誰も信じなかった。信じないまま、誰をも、思うままに動かした。あの両眼に睨まれると、誰もみな…すくんだように動けなくなる。
子供の頃から、誰よりも、そう脅しつけられてきた、あいつは…誰よりも、祖父を憎み、怖れ、なのにどこかで尊敬して…誰よりも、そのことに…苦しんでいた…。
そこから出たいと、あがけば、あがくほど、捕われて…
結局、
すべてを甘受するか…すべてを捨てるか…どちらかしか選べなかった、あいつは…
だから…祖父に敗けて…逃げることしか、出来なかったのだと…

オレは……それが…苦しい憎悪の泥沼に突き落とされたみたいに…
どうしても…許せずに…

………憎かった…
…どうしても………オレを捨てた、あいつが…


すべての火渡に操られ…乗り越えられずに、逃げ出した…あいつの弱さが…

オレよりも、自分の弱さを択った、あいつが…


だからオレは…弱い奴が嫌いで…踏み潰してやりたいほどに、憎くて…



ここに来ると…今でも、そのすべてを、思い出す。
消し去りたい…あいつとの、とっくに色褪せた記憶までが、そこ、かしこに漂って…オレの首を絞めつける。

この…居るだけで息の詰まる、火渡の血を集約した、…この部屋に…
あの男の匂いが……残っていて…締めつける……

許せないからだ。
オレは…今でも…あいつが…

…だから…


「あああああっ!!!ダメだ!!!!」

突然、バン、とタカオがテーブルを両手で叩いて立ち上がった。

「木ノ宮?」
「オレ、やっぱ、この席は気に入らねえぜ!!」
「…なに?」
「悪ィけど、嫌だ。ここは」
「木ノ宮…おまえ…」

おまえも…?
なら、どうする気なんだ…


…と…ふと…思った…。


木ノ宮は、立ち上がって、テーブルを睨んでいる。


どうせ…この部屋の何ものも…動かせやしないのに。
その席も、祖父のレリーフも、オレの憎しみも、思い出も…なにひとつ…


が、
そのとき、

給仕が、あっ、と声を上げた。

タカオが、
椅子の美しい刺繍を、片足で、ぐしゃりと踏みつけ、
黒金のように輝く螺鈿のテーブルに、ガッと飛び乗ると、
その勢いのまま、

テーブルを軽々と飛び越え…

「よっと!」

オレの隣に、トン、と着地した。

…………。

「え〜とォ…」
それから、おもむろに近くの椅子を…無造作に片手で担いできて…
オレの椅子に、ぴったりつけて置くと、
「うし!」
隣に…ドサリと…落ち着いた。

「は〜〜。や〜っぱ、ココがいいなー。オレ」

…………………。

大きな瞳が…エヘッ!と笑ってる。
オレの肩に、いつもみたいに手を回して、
いつも通りに、抱き寄せてきて…

瞳を無邪気に、覗き込んでる。


………………。


「だーって、このテーブルでっけえからさ〜。向い側だと、カイとすげー離れちまうだろー。だから、オレ、こっちがいいな!!」



…………つまり…その………ここは………観覧車と…同じ…なのか…?



「ん?!…えーと、……あ、そっか!……そこの、おじさーん!メニュー2つね!オレ、腹減ってるから急いでくれよ!それから〜えーっと薬飲むのに使うからさ!悪ィけど、できたら、ぬるま湯みてえの持ってきてくんねえかな?!…あんまり冷たくも熱くもねぇやつな、頼むぜ!」

ウェイターが…白目を剥いてる…。
オレも、ちょっと…白くなってる…。

が、まぁ……向こうは、プロだ。
「かしこまりました」
すぐに立ち直って一礼すると、音もたてずに扉を閉めて、出て行った。

「………」
「……カイ?」
「………」
「カイ?」

タカオが、きょとんとオレを見てる。
天然すぎて…もう…本気で…バカみたいだぞ……おまえ…

「木ノ宮…」
「へ?…なに?」

このギラついた部屋の、豪華な、だだっ広いテーブルで…

…まるで小さなコタツでも囲んでるみたいに、端っこに寄って、
ちょん、と、かたまってる二人組…だなんて………上から見たら、ぜったい、マヌケだ。

……なにか……笑えるぞ……木ノ宮……

「カイ?おまえ…もしかして………嬉しい…??」
「……」
「なんか知らねえけど、あ〜〜〜っ良かった〜!オレ、ちょっと安心したぜ〜。クラゲ見てから…おまえ、すげぇ具合い悪そうだったし…さっきも顔色、悪かったから、もー慌てちまって…。はーっ、けど…良かったなァ〜〜。おまえが元気になって。…う〜〜ん!……ホッとしたら、マジ、すっげーハラ減ってきちまったぜ!!」

完全に、いつものノリに戻ってしまって…タカオが、椅子にもたれて伸びをした。

そのとたん。

巨大な圧搾機がスリ潰してくるような…痛くて苦しい室内が、ガラリと変わり、
…まったく…いつものコイツの部屋と…同じ雰囲気に…入れ替ってしまった。

なんだ…?これ…は……?

「おまえ…」
「え?」
「おまえは…厭じゃないのか…」
「なにが?」
「……この部屋が」
「なんで?…え?……いや〜〜〜」
木ノ宮が、なぜか急に照れて、頭を掻いた。
「そうだなーさすがに少しはキンチョーするかなァ…?…だって、わざわざ、おまえの身内に紹介してもらったみてぇでさ。…けど、嬉しいぜ!オレ。…ホラこういうのって、アレだろ…つき合ってるのが、やっと、おまえんち公認?みてえで…」

「……………」

…そうだった…

オレとしたことが…うかつにも忘れてた…。

……こいつの……正真正銘のバカっぷりを…侮っていたんだ……

「カイ?」
「………」
「カイ…?」
「木ノ宮、おまえ…何が食いたいんだ」
「え?…いや〜何でも。実は、昼メシ抜きで、腹ペコだしー」
「なら、オーダー取りにくる奴に言えばいい。ここは、何だってある。世界のどんな料理でも出してくれる」
「おー!そりゃあ楽しみ…」
「木ノ宮?」
「けど…カイ!」
「ん?……?!」

顔を向けたら…唇に…キスされた。
いつもの…木ノ宮の…味がする…。

「んー。ゴチソウサマ!!」
「……夕飯なら、これからだぞ」
「ぶー。料理がどんなに美味くても〜おまえはもっとサイコー!!だろ?」
「オレは食い物か」
「へっへ〜。そうだなー。世界で1コしかねえ、超ゴーカな食いモンかな。…な!カイ?」
「なぜそこで…オレに同意を求める…」

…………。

それから…隣のバカが、何をどれだけ食ったのか、オレは…途中までしか憶えていない。

カットグラスに入ったグリーンピースの冷製スープに始まって…パールホワイトソースのかかったオマール海老のポワレだの…フォアグラのコンフィ、アワビのシャンパーニュ蒸し…フィレ肉のローストハーブに、トリュフでコーティングしたヒラメのクルミオイル焼き、キャビアソースのかかったタラバガニのフュメ、レフォールソースの仔羊肉、シャンパンのグラニテ、鹿肉のパイ包み焼き………ああ…もう…わからん…!!…

…を…各三人前ずつは、空にしたんじゃないのか。なにか…ブラックホールのような胃だ。デザートに…野苺のシャーベットがついたハート型のショコラと、ピスタチオのムースと、クレームブリュレを、たいらげながら…

「は〜。美味かったな〜。最初は、ヤな感じでブキミな店だと思ったけど。最後なんか、もぉすげーみんな親切だったし〜」

ゴキゲンなタカオが、膨れた腹をポンポン叩いて、椅子にそっくり返ってる。
のびのびと食事してたのに、べつに…見苦しくもなかったのが…不思議だ…。コイツは…
世界大会のおかげで、ずいぶん向こうの貴族どもにも会ってるし……場慣れしてると言っても、いいのかもしれないんだが…
ミシュランの三ツ星シェフも、この国の政財界に手慣れた支配人も、まったく近所の八百屋か、魚屋並みに扱って、……呆れるほど…自然だ…。

誰も…

この部屋の雰囲気を、壊したことなんて、ないのに。
連綿と続く、火渡の伝統を、踏み倒したりなんて、出来ないのに。
あの男だって、そんなことは、出来なかったのに…
だから、あいつは…独りで、ここを出ていったのに…
タカオは…ただ座ったままで、なにもかも…魔法みたいに変えてしまった……とでも…いうんだろうか……?


呑気に満足してるタカオを…ぼんやり眺めていたら…


そのとき。


突然。


大きな音に、破られた。

巨大な扉が、全開して。
ザワリと、異質な風が…吹き込んでくる。

寒い……寒…い…?

「え?…誰だよ?……まだ食うモンあったっけ??」

タカオが、そっちを見た。
オレも、見た。

瞬間、心臓を……凍った素手で掴まれた…気が……した…。

……むろん、それを…忘れていたわけじゃなかったんだが…。当然、予測の範疇だった…はずだ……
だが…まさか…
こんな所で、ブッキングするとは…

オレは……うかつだった自分を責める余裕もなく…

ただ…ぼんやり、奴を見た。


「久しぶりじゃのう、カイ」


絶対の自信をひけらかす、嫌な両眼が、見下ろしている。

扉の前に、
左右5人ずつ黒服のSPを従えた、オレの祖父…火渡宗一郎が…立っていた…。






しつこい視線でオレを撫でまわし…ほとんど一年ぶりくらいに会った男が…まるでオレを陵辱し勝ち誇った口元で、嘲笑っている。
「驚いたものじゃ」
「……」
「のうカイよ…おまえも、この部屋を使うということは…火渡の一族だと自覚があるのか?…儂に逆らって出ていった者が。それとも、いまさら儂の許へ戻りたくなったか。…儂の赦しを、請いたいか?」
…ねっとりした口調で…舐めまわされる…
服従を…強制される…
……嫌悪で…ぞっとした…。
「ここへ入ったということは…もう一度、儂の物に、なりたいという事じゃろう?おまえが、泣いて詫びるなら…認めてやらぬでもないが…」
卑猥で、老獪な眼だ。
貪欲な声が、オレの全存在を、ひざまずかせようと、脅迫してくる。
この冷酷で我侭な男は…自分に逆らうなら、たとえ身内といえど抹殺したってかまわないと…たぶん本気で思っている。あいつにだって、そうだったように…三年前は、『おまえなど、BBAもろとも消えてしまえ』そう、憎々しげに、オレを罵倒した。
こんな男を…たとえ、いっとき、一部なりとも信じて……好きにされたのかと思うと…
オレは…悔しさと恥辱で…目の前が暗くなるほど…動悸がしてきて…

「どうした、カイ?儂に、返事も、できんのか」

いきなり詰め寄られた…混乱と…憎悪と…どう反撃していいのか、とっさにわからない動揺で…声が出せずに…それでも、どうすればいいのか…必死に考えて…
オレは…この男に、一度、だまされた…。
人生も価値観も、操られた。まるで強引に犯された屈辱だ。だが…掻き回され、つけ入られ…踏み込まれたのは…オレの責任だ。オレは…たぶん…あんまり寂しかったから…こいつを…信じてしまって…

それが…過った選択だったと…どこかで気付いていたのに…

………寂しかったから…あんまり…オレは…

…寂しすぎて…


「待てよ」


そのとき、タカオが、立ち上がった。

オレを、まるで…全身で、かばうみたいに…奴の視線を、遮った。

「爺さん…あんた、こんな所へ、何しに来たんだよ」

「なんじゃ…きさま…」

ジロリと見下している。
目の前の男が、BBAの木ノ宮タカオだと、認識している。煮え湯を飲まされたあげく最重要プロジェクトを潰された、と、
山よりも高いプライドを蹴られた苦痛ごと、殺意以上には怨んでいる。
暴虐な視線だ。
そもそも耐え難い屈辱を、何度も見逃しておくほど、この男は甘くない。
合法的に人間を陥れ、消し慣れたこの男が…
もし、タカオに…直接、手出しするような事にでも…なったら…

ふと…恐ろしい予感がして…
…オレが、慌てて、立ち上がろうとしたのを…

タカオの右手が…止めた。

無言で、オレを後手にまわして、動かない。
視線も、声も、驚くほど…据わっている。
こんなタカオは見たことがないほど…決然と、胆のすわった顔だった。

「何しに来やがった。オレの質問に、答えろよ」

「フン。小童が…何を言うかと思えば。この店は、儂が出資して作らせ、経営させている。この部屋は、火渡専用じゃ。儂が儂のものを使う、…なにが問題じゃ?」
「へェ…?そうなんだ。…けど、オレたちが、先客なんだぜ?」
「それが、どうしたというんじゃ」

祖父は、ひるまない。
そんなはずはない。
なのに…木ノ宮が、ひとこと、吐いた。

「帰れ」

低い、声だった。
テコでも動かない…ずっしり落とした鉄球みたいな…重い声…
「後ろの連中、連れて、とっとと帰れよ」
たたみかけるように、睨んでいる。
祖父が…
とっさに込み上げた激怒を…どうにか呑み込んだのが、わかった。
「バカバカしい。まさか、きさまが…カイのSPだとでも言うつもりか?」
「ああ、そうだぜ?」
「…馬鹿なことを」
「べつにジョークじゃねえよ。てめえが、どう思おうが勝手だけど。オレは、カイの護衛だからな。ここは譲れねえ」
祖父が、嘲笑った。
タカオも、笑った。
大人の余裕をチラつかせて嘲笑してくる男を、タカオは、まるで、片手でなぎ払うように、笑った。
祖父が…怒りで気の違いそうな眼になる…。
それでも、タカオは一歩も退かない。
互いに、相手を殺しそうな視線で、突き刺している。
「なにか…それほど、儂が気に障ったか?」
「ああ、サワったね」
この…バケモノみたいな男に対等に、対峙して、タカオが、まっすぐ剣でも撃ち下ろすように、言い放った…

「カイを侮辱するのは、オレが許さねえ。今すぐ謝って、ここから出ていけ」

「……怖いもの知らずといえば、聞こえはいいが…」
祖父の両手が、ぶるぶる震えている…。怒りのあまり、タカオを叩き殺しそうな勢いだ…
そのとたん全身から噴き出す、火渡宗一郎の怨念のような瘴気を無視できるのは……
たぶん…無知なバカか……天才だ…
なのに、タカオは、堂々と胸を張ったまま、気にもとめずに…
「ヘッ。べつにオレァ…おまえなんか、怖かねぇよ。後ろの連中だって、ぜんぜん怖かねえんだぜ?」
不敵に笑っている。
ほんとうに…微塵も冗談を含まない声で…はっきり、そう言った。

「カイには、絶対、手出しさせねえ。オレが守る。…そう決めてっから、なんも怖くねぇんだよ」

「……きさま…」

「おい、出てけよ。ここは、オレらが先客なんだぜ?後から、やってきて、勝手に入ってきやがって。てめえら全員、失礼だろ」
「儂に…そこまで言いおるとは……まさか…死ぬ覚悟でも、あるというのか」
「ヘッ。ねえな。ぜんっぜん。オレが、おまえなんかに、殺られるか」

「………」

「出ていけ」

「………」

祖父の、SPが、一歩、前に出た。
タカオが、反射的に身構えて、オレを背後にまわした。

戦う…気なんだ…。本気で、こいつは…
ドラグーンも、ないくせに…

もう一歩、近付いた黒いスーツの男に、
肩を掴まれる直前、
タカオが、いきなり、フォークを投げた。
ビシッ、と…こめかみをかすって、背後の壁に突き立つ。
それを合図に、一斉に、飛びかかってきた巨体の、顔面を狙って、タカオが皿を投げた。とっさに目をかばい、相手がひるむ、
一瞬の隙をついて、タカオが脛を蹴り上げ、脚払いをかけた。
ガラガラと、物凄い音がする。
陶器が割れ、ガラスが散り、椅子が雪崩れて、祖父のSPが、そこらじゅうに転がる…
「やめんか!!」
怒号で、黒服の集団が、静まった。
「バカ者!!部屋を壊す気か!!…子供一人に、なんてザマじゃ」
もうしわけございません…と、這いつくばる連中を一瞥して、

「ヘッ。もう、終りか?爺さん?」

タカオが、宗一郎に、まったく隙もみせないのに、くだけた声で笑いかけた。
「オレは、まだまだイケるけど〜?」
「おのれ、……何度も何度も…儂の邪魔ばかりしおって。…大転寺の子飼いごときが…」
「大転寺のおっちゃんは、今、関係ねえだろ。オレは、木ノ宮タカオなのー。何度でも来やがれってんだ。相手してやるぜ?」
「……」
怒りで、沸騰したこめかみを抑え、歯ぎしりしている…

「儂に逆らう者は……それが誰であろうと、消し去ってくれる…」

呪いのような声だ。
血の気が引くほど、激昂している。

こんな祖父を見るのは、久しぶりだ…。
あの男が出て行ったときと、オレが裏切ったとき…以来かもしれない…。

今にもタカオを引きちぎりそうな衝動を、
それでも…
一歩も譲らないタカオに、

こんなところで刃傷沙汰など、まったく得策ではないのだと、どうにか、正気に返って、……
自分の護衛どもに、ひとしきり怒鳴り散らしてから、
オレたちをも、口汚く罵倒して、
ついでに、あの男のことも、罵って…

オレの知らなかった…あの男との確執まで、ぶちまけて…

しかし、
それ以上には、何もせずに、
代わりに、 大きな音を響かせ、

いからせた肩の向きを、変えた。

太い足音が、ゆっくり、離れていく。

扉が…腹いせのように閉まりはじめる……

狂った足音が、だんだん遠のいていく…

急に…静かになった室内で、
木ノ宮が、
はじめて、オレを振り返り…

ニコッと笑った。

「カイ」
「…木ノ宮?」
「じゃあ、行くか」
「…?……どこへ」
「え?家、帰ろうぜ。だって、食うもん食ったし〜。もう用ねえだろ?」

…けろりとしていた…。

おまえ…
火渡宗一郎を、追い出しておいて…
…なんて奴だ…

「カイ…」
なんとなく、ぼうっと見てたら…タカオが、オレの膝からナプキンをたたんで、テーブルに置いた。それから、
肩に、手を添えて、

「ごめんな、カイ」
「なにが…だ」
「おまえの祖父さんに…酷ぇこと言っちまってさ…。でも、オレ、許せねえんだよ。おまえに嫌なことする奴は…どうしても…」
一緒に立ち上がったタカオは…少し…悲しい顔をしていた…。
「けど…やっぱ…ごめんな…」
「おまえが…謝ることじゃないだろう。いいんだ、あんなものは…あれで。そんなことより…」

オレは…おまえのほうが…むしろ不安だ。
…万一、あの祖父の…個人的な標的にされでもしたら…

「それは…いいよ、べつに」

なに言ってるんだ。
おまえは…あれの力を知らないから…
いや、おまえは…何でもかんでも…簡単に考えすぎる。

「いや、オレさ…ホント、怖くねえよ。力の差とかさ、いちお、わかるけど…。ブルックリンだって、オレよりすげー強ぇなって思ったけど…でも…おまえが戻ってきてくれたから…オレ、ぜんぜん怖くなかったし」
「木ノ宮…?」
「あのな…気持ち、決まってると、オレ、怖くねえんだよ」

さっきから…なに…言ってるんだ…おまえ…

一緒に歩きだしながら…
タカオが、もう一度、扉を開き、
オレの背を押して、部屋から…出した…

背後で、軽い音をたてて、扉が閉まる…

それから、
絨毯を敷き詰めた階段を、オレの体に…手を添えながら一緒に下りて…
…まるで、支えるみたいに…

タカオは、落ち着いた顔で…微笑んでいた…。

「だいじょうぶだよ。オレは、ほんとに平気だぜ?…」
「………」

祖父が蹴散らしたんだろう。
大理石の入口が、さっきよりも広く開いている。

店の者たちに、
黙礼で見送られて、
外に、出た…


いつの間にか、星が、…瞬きはじめている。


「カイ…」
「ん?」

空を仰いで、
木ノ宮が、さっきの続きのように苦笑している。

「ホントに、オレさ…おまえの祖父さんは、怖くねえよ」
「……」
「そんなのより…オレは…おまえのほうが…ずっと怖ぇんだぜ?」
「なに?」
冗談のような。でもないような…
自然な口調。
それでも、瞳がひどく真剣なのが、
よく…わかった。
「…おまえに…バカにされたり…おまえに…キラワレちまったり…おまえに…オレが…もう必要ねえ男なんだって…見限られたりするほうが…オレは…ずっとずっと…怖ぇよ…」

大きな瞳いっぱいに、星を映して、
…澄んだ表情で、
タカオが、笑ってる…。

「けどさ、オレ…それでもいいって…決めたんだ。……もしも、おまえにキラワレちまったら、オレは死ぬほど辛ェけど。それでも、オレは…おまえを守るって決めたんだ」

「………」

「おまえが、オレを見捨てても…オレの気持ちは…変わんねぇから…。おまえを…幸せに出来るなら…オレは、それで、充分なんだって…そう…思ったから…。だからさ、オレ…、…オレは…いつだって、誰とだって…おまえのために、戦えるよ…。絶対に、誰にも負けねえで、戦えるよ…」

晴れ晴れとした笑顔で…
星よりも…綺麗に…
なのに、まるで…泣きそうなほどの強い決意で…必死に言っている…
コイツは……

コイツが…オレは…やっぱりとても…愛しくて…

あんまりバカすぎて…可哀想だから…

そっと…

指を…つないでやった。

「え?」

驚いて…
気がついて… 頬を染めてる。
それから…
ヘッ、と笑って。
握りなおした手を、しっかりつないで…

ぶんぶん勢いよく振って…小さな子供みたいに歩きだした。

石を敷いた、歩道の隣は、広くて優美な公園だ。
茂みの間から、ライトアップされた教会の、高い塔と、大小6つの鐘が見える。

「へっへー!こういうのも、なんかイイな〜」
「なにが」
「カイと、夜路デート!!」
「きさまは…昼でも夜でも、家でも外でも…なんだって、イイんじゃないのか…?」
この…選択可能域の広すぎる、お調子者が…
「うん、そーだよなぁ。だって、オレ、カイと一緒なら、いつでもドコでもシアワセだもんー!」

「………」


公園を通り抜けようと、芝生に入って、
しばらく歩くと、

「カイ、周り、見てみろよ」

不意にタカオが囁いた。

「……」

よく見ると暗がりに…
…カップルたちの影が、あっちこっちで、重なってる。
ベンチで…もつれてる影もある…。

ここに入ったのは…実は、まずかったんだと…間の抜けたことに、そのときになって…
ようやく、オレは…気付いたんだが…

おまえ…何だって…こんな所に…

「カイー!」

タカオの瞳が…
急に、イタズラっぽくニッと笑った。

「やっぱ、食った後は、運動!…かなァ〜」
「………きさま…まさか、最初から…」
「だ〜って家帰ったら、今日、大地いるから、出来ねえじゃん」
「………」

いきなり、

「おいッ…こんな…ところでっ」

芝生に…倒された。
柔らかい土に…ふわりと重なって…転がり込んでる…

「だいじょーぶだよ。暗いから、よく見えねえって」
って…きさま、せめて木陰とか、もっと丈の長い草の中とか…!!
「じゃあ全部、脱がねえで、下だけちょっとにすればいいじゃねえか」
そういう問題じゃ…
「…ッ…」

短い芝が…肌にチクチクして、ちょっと痛い。
冷んやりした土が、青臭い匂いを湿らせている。

なのに、木ノ宮が…ジャケットを敷いて…
その上に…倒されたら…すぐに忘れてしまった。

唇を舐めまわされて…
局部を握られて…
草の上に…這わされて…

「ふ…ぅんッ…」

まるで…子犬みたいな声が…どこから出るのかと思った。
ダメなんだ。
もう…
コイツに、弄られると…躯が…勝手に反応して…すぐに…気持ち悦くなってきて…

気がつくと…タカオの腿の上に跨がってたり…
嬌声を上げながら腰を振り立てていたりして…

すっかり…オレは…どうかしてしまう…

「ぁ…あっ…」

舌と乳首と後腔を、同時にこねくりまわされて…全身が…震えた…。

もう下着を全部、下ろされても…
こんな無防備な外気で…両脚を広げられても…なんの抵抗も出来やしない…

「はッ…あッ…あッ…」

自分のものをタカオの口に含まれ、強く吸われて…
舐め嬲られて…

「あッ…あぁっ…」

自分から局部を押しつけている…

こんなに自分が…淫らだったのかと…恥ずかしさも通り越して…呆れるくらいだ…

「アッ、アッ、ひァ…ッ…」

あられもない啼き声を張り上げて…
もう…タカオをくわえこんだ後ろだけでも、欲情させられて…
双球を揉まれただけでも、あっけなく達かされてしまったり…
オレ自身なんて、触れられなくとも、何度だって射精させられてしまう…

「アァッ…ひ…ッ」

コイツに強要されたら…何だって、されてしまいそうな自分が…怖い…

それでも…
もっと…気持ち悦くなりたくて…
もっと…一つになりたくて…

こんなに…

コイツに…こんなにされてしまったのに…

また捨てられたりしたら…オレは…今度こそ、憎悪のあまり…気が狂ってしまうに違いない…


置いてかれるのは…もう…嫌だ…

嫌だ…
イヤだ!!

……キノミヤ!!

イヤなんだ…!!!


裏切られるのは…もう…イヤだ…


だから…オレは…すべての明るいものを排除して…
拒絶して…
みんな先に、裏切っておいて…
おまえのことも、憎もうと…したのに…
戦って、倒して、オレの前から、完全に消してやろうと…思っていたのに…

それなのに…


おまえは………

オレを…捕まえて…こんなに…しやがって…




…………ずっと……


憎かった、あの男が。


あの男が出ていってから、すべてが変わってしまった。

オレの居場所がなくなって…
オレの周りは…暗くて寒い所ばかりになってしまった…。

いなくなる前の日に、
あいつが…オレを…あのアクアリウムに連れて行った。それまで、何度、頼んでも忙しいからと、はぐらかされていたのに。
あの日だけは…一日中、一緒にいた。
優しかったんだ。
オレを愛してると言った。
必ず幸せにすると、約束した。
でも、翌日、あいつは出て行った。

その数日前から、
祖父と、あいつは…凄まじい言い争いを続けていて。

怖かった。

いつも優しいあいつが、別人みたいに怒鳴ってた。
それまで祖父には、どんな口ごたえもしなかったあいつが、とうとう追い詰められた小動物の捨て身の攻防みたいに、叫んでた。

オレは…
なんだかよくわからないのに、それだけが不安で。
とても不安で…

「父さんは…どこにも…行かないよね?」

オレを置いてったりは、しないよね。

そう聞いたら、笑って…オレの頭を撫でてくれた。
ほんとうに……優しかったんだ。
オレを、誰よりも、愛していると…言った。
絶対に、離さないと約束した。

なのに翌日、
あいつは、出ていった。

祖父はオレに、「おまえは進に捨てられたんだ」と…罵った。

…かもしれない。
あいつが…最後に…祖父に向って叫んでいた。

『会長…いや…父さん!!…わたしは、父さんの言うまま、父さんの望む勉強もした。結婚もした。会社だって継いだ。でも、それは、すべて、あなたの言いなりに従わされていただけで…決して、わたしの生きたかった人生ではないんです!!わたしは…もう…あなたから自由になりたいッ…本当にやりたかった自分の夢を追いたい!!自分の信じる生を、自分の思うままに生きたいんですッ!!』

あの優しい男が…死ぬような勢いで、声を絞りだしてる。
すべてを賭けて、
これまでの半生を、否定したがっている。

オレは、驚いた。
天地がひっくり返るような衝撃だ。

だが、落ち着いたら、
次に、
あいつにとって、
オレの存在すら…必要なかったのかと…知った……。

祖父を怖れるあまりに出来た、オレは…偶然の産物だったんだ…。

だったら、最初から作らなければ、良かったろうに。
勝手だ。

だが、しょせん…人間とは…勝手な生き物なのだろうと、思った。

あいつだけじゃない。
祖父だって、そうだ。

オレだって…勝手なんだ…。

……みんな、そんなものなんだ……

そう…思って………思おうと…した…



あいつがオレの前から、愛情や優しさや信頼ごと、持ち去って…消えて以来…
何も、信じるものがなくなったから

オレは、祖父の道具になった。

だが、それで、よかった。
別に…オレの中では…もう、そんなことは、たいしたことじゃなかったんだ。
少なくとも…祖父は、オレの前から消えたりはしなかったし…

何も誰も信じずに、それでも絶大な力を持つ祖父は…あいつよりも、強い点で、少しはマシな気がした。
そういう力を持つ事こそが、オレにも必要なんだと思った。
べつに…
あの祖父を心から尊敬なんて、微塵もしちゃいなかったが…
オレは、力が欲しかったんだ。

絶対の、力が…。

誰よりも強くなれれば…
オレが、世界を、従えるほどに、強くなれたら…
この迷宮みたいな地獄からも、抜けだせるんだと…思った


憎くて。

…どうしても…許せなくて…苦しくて。

あんまり…悲しくて…寂しくて…寒い…から…


あいつが祖父に敗けて逃げたから、
オレは、祖父の力を手に入れてやろうと思った。

あいつが夢を語って出て行ったから、
オレは、絶対に夢なんか見ないと誓った。

そんなものがあるから……いけないんだと、思った。

あいつが、幸せを探して出て行ったから。
オレは、絶対に、幸せになんか、ならないと決めた。


オレは、

あの男が捨てたものを使って、
逃げたものを手に入れて、

世界の誰より、強くなる。

そうすれば、もう、寂しくなんて、ないはずだ。
怖くなんて、ないはずだ。オレは、すべてを越えられる…

憎悪は、少しだけ…凍えた身体を温めてくれる気がした。
憎んだら……少しは癒された気がした。

復讐は、暖かいものなんだと、感じた。

だから…幸せも、信じることも、もう要らない。


だって、そうだろう?

あんまり幸せだと感じると…翌日には独りにされてしまう。
誰かを好きになって満たされると…いつか、それを奪われて…二度と思い出したくもないほど…辛いおもいをしてしまう。

苦しい。寂しい。悲しい……。だから…

誰も信じなければいい。
誰も愛さなければいい。

そうすれば、苦しむこともない。


これ以上、シアワセにならなければ。
これ以上、寂しくなることも、ないんだと…

そのとき、オレは…思ったんだ…。


だから…オレは…すべての暖かいものから、逃げて、否定して…


誰も信じなくても済むほど…強く、強く、なりたかった。
世界を従えれば、もう寂しくなんか、ならないと…信じた…。


そう…信じて…いたのに…



「あッ、あッ、ぁっ…はッ…」

タカオを、くわえこんだまま揺さぶられて…
前後不覚に…喘いでる…

草の夜露で濡れてるのか…自分のものかも…もう…区別できない…


こんなもの、必要ないはずだ。

本当は、オレには、不要なはずだ。


なのに……オレは…


なぜ…

こいつに…抱かれたくて…もう…こんなに……濡らして…


「木ノ宮ッ…キノミヤ…!!」


きっと、おまえに裏切られたら…オレは…
正気を失くして…
…なにもかも…破壊し尽くしてしまうのかも…しれない…

そうならないように…

おまえなんか、好きにならないように…

何度も、何度も…
先に裏切ってやったのに…
先に置き去りにしてやったのに…


追いかけてくるから…


もう……戻れもせずに…


どうすればいいんだ…タカオ…


オレは……いったい…どうすれば…




「カイ…!!」


そのとき、不意に…
星明りに…微笑った瞳が、大きく、オレを…見つめた。





■to be continued■