オレの古い記憶は…

どっかに吹っ飛んだか、置き忘れてきたんじゃないかと思うほど…曖昧だ。
幼かったから忘れてしまったというより、憶えていたくないから、無意識に遠くへ退けてしまった気もするが。
…だというのに、

その朝のことだけは、オレは…
今でもよく憶えている。

あいつは、
必死に引き留めようと見上げたオレに、一度だけ視線を落として。
でも、なにも、言わなかった。

歩き出した背中は、もうオレを、振り返りもしなかった。

父さん…と、もう一度だけでも呼びたかったのに…

その眼には、
オレ以外の何かと、
あいつの決意が、
憑かれた影みたいにくっきり映っていて。

もう帰ってこないことだけが、よくわかった。

祖父はオレに「おまえは父に捨てられたんだ」と言った。
真偽は、知らない。でも、あいつには、
オレよりも…大事なものが…あったんだ。

それだけは…よくわかった。


それが、最後だ。
以来、オレは…あの男のカオを、マトモに見たことがない。





「カイ…」
「……」

「…カイ…」
「……」

「カぁイッ!」

「?!うぁ…ッ」

き…さま…いったい…何するんだっ?!

「えっへへー!カイー?」
公共の場で…耳に息なんか吹きかけやがって…なに喜んでるんだキサマは…っ

おもいっきり睨んでやったのに、コイツときたら…
「もォさっきから、ずーっと不機嫌な顔しちまって…どこ見てんだよ、おまえは〜?」
…って…おい…木ノ宮っ
「いーじゃねえか」
「良くない!!きさまッ…こんな所で…」
「そぉかぁ?オレは〜ぜひ見せびらかしてぇ気分なンだよなァ?」

週末の人ごみの中で…タカオが、深く腕をからませてくる。オレの指の間に、自分の指を一本ずつ、しっかり入れてギュッと握って…
「どうしたんだよ、さっきから黙っちまって…もしかして楽しくねえのか?」

いや、そういうわけじゃ……

「だから木ノ宮…!!」
「いーだろー?せっかくデートしてんのに〜こんくれぇしねえと気分出ねえよ!」

「おまえ…言っておくが…」
「なんだよ?」

キサマのごくカンタンな頭には、入ってない予測値かもしれんが。たとえば、だ。…そのへんの雑踏から…きさまの細かいファンだの、どこにでも登場するマイク抱えたブレーダーDJだの、よもや写真週刊誌の記者だのが現れたら…どうするつもりだ?!…
「別に、だいじょーぶだろ?オレら、未成年だし〜」
……なお悪い…。

「ンだよ、おまえ…恥ずかしーのかよ?ったく、いまさら〜。いーよ、そしたらオレ、全国ネットで、つき合ってる宣言しちまうから。いいかぁ?みんな!カイはオレのモンだから、誰も手ェ出すなよ!!ってな。ヘヘッ、たとえどんなヤツと勝負になったって、オレァ負けやしねえぜ?」
「……何の勝負だ、何のっ」
「んん〜?そりゃ…やっぱ、かぐや姫争奪戦とかだろ?断っとくけど、月に帰るなんて言うなよカイ?ま、オレが帰さねえけどさ」

きさま…どんな思考回路を…搭載してるんだ……
コイツに何を言ってもムダかもしれん…という気が……今……

「あーそれともアレか?もしかして…オレ達、もう一週間も、してねえし〜」
「な!?…」
「それでユーウツ?!とか…」
……木ノ宮……きさまという奴は…どこまで…オレを…
「…んん〜実はオレはさ、それが憂鬱なんだよなー」
「…!?…なんだと?…おまえ…」
この無尽蔵の体力系色魔が!!…ドップリ真面目に落ち込んだ顔で、うつむくな!!…あの夜、結局、朝までオレを…足腰立たないほど犯りまくった奴が…よくも、ぬけぬけと…
「はぁ〜先週までは、二人っきりで、やりたい放題だったんだけどなー…」
あの体力労働の翌朝、コイツは、『だ〜っ!!じっちゃん達、帰ってくるまで、なんとかしねえとヤベェよ〜!!』などと大騒ぎして、一人で忙しく掃除や洗濯していたが…ときどき夜具を干してる庭先から大声で、『カイ〜だいじょーぶかー?いーよ、おまえは手伝わなくって』…って…アタリマエだ!オレは、おかげで一日中、寝込ん………

「ああっ!?…それともアッチか…。あのあと、後始末するとき、おまえん中にシーツ突っ込んだのが気に入らねえとか…。いや悪かったと思うけどさ〜だぁって、あんまり何回も中出しちまって…指だけ挿れて取るの大変だったんだよ〜…って!?あ、それとも…アレか。それでカイ…シーツの感触が変っっとか言って、またイっちまったのが嫌だったとか…」

「…………」

「……?…カ〜イー?…」
「…………」

………どうでもいいが………き…さ…ま…
「こんな所で、そんな話をするなッ!!!」
「あははっ照れんなって。気にすんなよ、みんな忙しーから、誰も聞いちゃいねえよ。ほら、見ろよ周り、誰も見てねえし…」

……いやオレは…きさまと違って…確認する勇気までは…
「でも〜可愛いかったなァ…おまえ〜小っさい口ひらいて、アァ、アァ、泣き喘いじゃって…もォ上も下も閉じるヒマなく濡れっぱなし〜…いやオレ、マジでさ…おまえが正気失くしてからが勝負だと思った…この間。真っ正面から足開いちゃって腰すっげー動かして声上げっぱなし〜…はー好かったな〜…。…けど、それがさ〜もう一週間も前かと思うと、なんだか憂鬱なんだよなー、オレ…」

「………」

両側に雑居ビルが建ち並ぶ、ざわめいた通りの中で…超絶無神経な変態バカが、ものすごく、ガッカリしている。………!!
あんまり目眩しすぎて…
オレのほうが、倒れそうだ!!!

頭上から照りつける陽射しが、真夏みたいに明るく眩しい。

もういい…。なんだか…どっと疲れすぎて…
……気が…抜け…
「なー今度さぁ…新技!追加しよーぜ?」
まだ言うか、おまえ…
「シーツプレイとかさー?おまえ、すげー感じちゃってたし!後始末も出来て、一石二鳥!……わはっ楽しみ〜」
……なんなんだ…それは…。ヘンな方向に走るなっ。いや、それより…もっと小声で話せ!というか黙れ……頼むから。

なんだかアタマが真っ白になりそうなオレの隣で、しっかり絡みついたタカオが、陽射しと一緒に、からから笑ってる。
きさまなんぞ知らん、勝手にやってろ…と置き去りにしてやったって、いいはずなのに。そうならないあたりが、絶対もうどうかしてる。

「けどオレら…次いつ、ヤれんのかなァ。いっそ、じっちゃんに話してみるか?わかってくれんじゃねえのかなーオレ達の関係〜。このままじゃさぁ…オレ…」
「木ノ宮。……なら話してみろ、おまえとは二度とやらん」
「え〜っそりゃねえよ〜」

バカが…大慌てで騒いでる…。
フン。ざまあみろ。
…………。


なんとなく…

バカバカしくなってきた。

なんだって、このオレが一人で色々考えてなけりゃならないんだ…。
ただの杞憂だ。

なにかの間違いだろう。


あの男と…タカオがかぶってしまったなんて…


オレが…きっと、どうかしてたんだ…あの夜は…







「ヘェ?…ここ?…オレ、はじめて来たぜ」

この高層ビルは有名だが、屋上にあるアクアリウムは、ちょっと地味だ。土曜の館内は、まだ午前中のせいか、ガランとしてる。それでも窓口には、そこそこ、友達、カップル、家族連れが並んで…

「カイ?オレがチケット買ってやるよ」
タカオのヤツが、片目をつぶって微笑んでる。
フン。なにカッコつけてるんだ?オレをエスコートでもしてるつもりか?生意気に…

入口で、小さなパステルピンクの懐中電灯を渡された。
「え?中、そんな暗ェの?」
「入ればわかる」
「なァんか、お化け屋敷みてえだなー。ヘヘッこういうの好きだけど。カイ?怖かったら、オレにしがみついていいぜ?なんてなー」
「………」
「……も〜、そーゆー冷めてぇ目で見んなよオマエ〜!!ちょーっと言ってみただけだろー!!」

相変わらず意味不明なドリーム全開で、うるさく騒いでる奴と一緒に、
一歩、足を踏み入れると…

「おわ〜…」
真夏の夜の海をイメージした…ナイトアクアリウムが広がっている。ところどころに設置された小さなフットライトだけの暗闇に、アクリル水槽の巨大な壁が、青く光る。
揺れる水の影が、波紋になって、天井や足元にまで広がり…空間すべてが、深いブルーとグリーンに沈んでる。

さざ波の音が聞こえ、足に、飛沫がはねる錯覚がした。

「ヘヘッ…カイ?」
木ノ宮が…腕をからめて…また手を…ギュッと握ってくる。そのまま唇を寄せてくるから、
「後にしろ!後に!!」
「痛でっ!!」
顔面を、ピンクの懐中電灯で、音が出るほど殴ってやった。
「きさまこそ、どこ見てるんだ?せっかく案内してやったのに…オレじゃなくて海を見ろ!海を!!」
「ちぇっ。わかったよ」
渋々、離れた瞳は、しかしすぐに周囲に、くぎづけになっている。
「すっげえなァ。カイ…」
「………」
「なぁ、その懐中電灯、つけないでおこうぜ?」
そのほうが楽しそうだから!と、コイツが言うから、明かりも…消した。

蒼い蒼い珊瑚礁の底を、歩くみたいに。
手をつないで歩いていると、足元に、熱帯植物みたいな肉厚のギラギラ赤い花をつけた海草が泳ぎ、蛍光色の珊瑚が光る。近付いてきたピンクとオレンジの、長いクチバシのついた魚の目が、水晶みたいにキラッと輝いた。
「うっはは〜。なんかイイな〜」
「はしゃぐな」
「いーだろー?だって今オレ、おまえと一緒に海の底、歩いてるんだぜ?」
巨大な海キノコの森の中に、大蛇みたいなウツボが動く。龍みたいなシードラゴンの後ろから、骨まで透けた魚の、パープル色のウロコが翻る…
「……お!?見ろよ、カイ!ウサギみてぇなイルカがいる!」
………ってオマエ、それ…
「長ぇ耳〜。ウサギイルカじゃねえのか?!ウサ耳だ、ウサ耳イルカ」
…じゃなくて、黒の胸ビレだろ?白黒、二色刷りの太ったイロワケイルカが、仰向けに泳ぐから…そう見え…
「ん?!……大変だぜっ、こっちにニョロニョロがいる…」
「なんだ…それは…」
「おまえ〜ニョロニョロも知らねえのかよ〜?!今、再放送やってんだよ。そういうキャラいるんだってば」
「……」
「おー!…あっちにゃニモがいるぜ、ニモ!!」
「……今度は何キャラだ」
「魚キャラだよ〜。おまえは〜も〜。少しはテレビとか見ろよ!」
「………」

なんだか……全然わからんが……
……喜んでるらしいから、まぁいいか。

コイツが…あんまり純粋に楽しんでるから…ひきずられて、なんだか…
オレまで…遠い過去に戻りそうだ。

ずいぶん昔、まだ…色んなことが…変わる前…

「カイー!すげーよ、このサカナ、目が無え!!」
「ブラインドフィッシュだ」
まったく陽の射さない洞窟に住むから、目もメラニン色素も退化して全身、真っ白になっている。
「へェ…さっすが!よく知ってんなァ……お、カイっ!!向こうにマンボウがいる!」
ん?……珍しく正しいな、おまえにしては…。上下に舵のついた、3メートルはある青いバルーンみたいな物体が、水中にユラユラと…目的があるんだかないんだかわからないテキトーな感じで浮いている。
「うは〜おもしれェ〜オレ、これ好きなんだよなー。背中に乗ったらイイ感じだろ?」
「乗りたいのか?……」
「え?乗りてぇだろ、フツー。あのデケ〜背中見たら」
「……………。あれは背中じゃない。アタマだ」
「頭?!」
「マンボウは、アタマだけのサカナなんだ。だから尾ひれも腹びれもない」
「へー。じゃあ背中に見えるのは…ぜんぶ顔か…ヘンなサカナだなー」
壁面アクリルに、べったり張りついて……やると思ったが……やっぱりバカバカしくウケている。オレの手ごと持っていくから…水槽に手首が圧しつけられて…

水の冷気と…
タカオの鼓動が…伝わった。

冷気が少し痛いのに…
オレも…同じくらい高鳴ってる。

タカオが笑うと…その振動が…オレにまで伝わって…
トクン…と響く…

やはり…来て良かったと…思ってるんだ…オレは…


しばらく暗い海を歩くと、急に、パノラマみたいに…天井まで魚群が広がった。
360度、海の中。
目の前を、純白の足とヒゲをピンと張り、星砂を撒いた背中を光らせる、真っ赤なエビがスタスタ歩いてる。
ロボットみたいな巨大なタカアシガニがユラユラ万歳する上を、金銀の魚群が、ざあっと通り抜ける。
「んん…またニョロニョロだ。でも今度のはカラフルだぜ…」
おまえ、それ…アナゴの一種だから。と、教えてやろうかと思ったが…やめた。

「うははっ、すげーよカイーカタツムリ顔のサカナがいる〜!おもしれぇ〜」

オレの横でタカオが、笑ってる。
大きな瞳をキラキラさせて…青い水を見上げて……

…やはりオレは…
笑ってるコイツを見るのは…嫌いじゃないんだ…と、思った。

だから結局……
こんなところまで来てしまった…
もう二度と…来るはずも、なかったのに…。

「なぁカイ…、エイってさ…空、飛べねえのかなぁ」
ラジエターみたいな複数のエラを開閉しながら通っていく、平べったい生き物を見上げながら、
「なに?」
「だ〜って見ろよ。こんだけバタバタひらひら、してんだから。めちゃめちゃ頑張ったら、空だって飛べると思わねえ?」
タカオが、また……素でバカなことを言い出してる。
「なぁ、きっと、飛べるよ」
「飛ばして、どうするんだ」
「いや、楽しーじゃねぇか」
「………」
「ンだよ、おまえ〜っ…いーだろ!エイだって空飛びてえかもしれねぇだろぉ?やってみなけりゃわかんねえよ〜?!」
「それは、きさまのような魚類がいればな」
「も〜おまえは〜現実的だな〜。こんな時までオトナみてえな発想すんなよ!」
「きさまが、ガキで夢見がちなんだ」
「ちぇっ」
スネて。
それから、笑った。

あの男とは…
違うんだ。タカオは…
年齢も顔も中味も……なにもかも…。

なのに…オレは…
やっぱり…思い出してる…気がしてる…
何故…なん…だ?

あの…バカげた夢を見る瞳が…似てるのか。


オレが…
一番、好きだった…



パノラマを抜けると、いっそう暗くなっている。


「これが…クラゲ――?!!」

タカオが、握っていた指に、力を入れた。
「へェ〜ホントだ…。すっげぇキレーだな〜」

真っ暗な中に、光の粒が煌めいている。
そこだけ浮き上がるようにスポットライトの当たった、いくつもの透明なケースの中で…ひっそりと宝石を散りばめた薄いシルクみたいな生き物が光ってる。
まるで、ほんとうに…陳列されたショウケースに光る…色とりどりの宝石や、カットグラスや、シルクみたいに見えるんだ…。薄絹のレースが動くたびに、まき散らされる砂金、砕いたクリスタル、輝石…周囲に揺らめく金糸、銀糸…。

「…すっげえな〜。オレ、クラゲつったら、宇宙人みてえで変なカタチ〜とか。お盆過ぎると刺されるからヤベ〜ぐれぇしか思ったことなかったぜ」
タカオが…本気で感動したみたいに、オレの手を握ったまま…チカチカ揺れる燐光に見とれた。

…そう言うと…思った。
オレも…あのとき、そうだったから…。

「へへッ!けど…」
「木ノ宮?」
「おまえのほうが、もーっと綺麗だけどなっ」
「んッ?!」
いきなり、頭を引き寄せられて…舌まで…吸われてる…??
「んー!カイぃっ」
「ん、んっ…ッ…こらッ…木ノ宮ッ」
海の底の暗がりで、深く抱き合って…唇が…重なってる…!?

……どうなってるんだ…コイツは……
なんなんだ……おまえは……

「カイ、ありがとうな。すっげーモン見せてくれて。でもオレ、おまえと一緒に見てるから…だから、こんなに嬉しいんだぜ?」

唇を離して、満面で…笑った。
まるで、本物の真夏みたいだと思った。

…タカオは…あの男とは違うんだ。
オレだって違う。あいつに対するのと、タカオへの想いは。

なのに、

あのときと同じ痛みが…込み上げてくるのは…なぜだろう?


温もりが…いっそ痛い。痛い?

ああ…

…そうか…


瞳と…


オレの手を握る温度が……似てるんだ…

それが…一番、好きだったのに…


「でもカイ、なんで、こんなトコ知ってんだよ?ガッコーで来たとか?野外授業?」
「いや」
「あるわけねえけど…友達と?」
「違う」
「じゃあ誰と?独りで?……ってのも、なんかカイっぽくねえなァ。祖父さんは〜絶対ぇ来きそうにねえだろ…母ちゃん?…てのも、まさかな〜」
からかったタカオが、笑った。
「ははっ…実は父ちゃんとだったりしてな」
「………」

「どうしたんだよ?」

そのとき、

「カイ??!」

どんな顔を、
自分がしてたかは、知らない。そこら中にある水槽に映っていたかもしれないが。
見なかった。

ただ、タカオが、ひどく慌てて、
「クラゲ見れたから!…もう出ようぜ?」
オレの背を抱きかかえて、
「ここ、クーラーききすぎてるもんな。寒かったろ」
そんなことを言いながら…急いで外に連れ出した。
オレは走れないから…ノロノロ時間をかけて…

ようやく出れたら、
陽射しが明るい。エントランス前の花時計は、ちょうど正午を指している。
階段を下りて、時計を通り過ぎ、噴水が見えるところまで来ると、
タカオが、ベンチにオレを座らせた。
隣に座って…急いで背中まで腕をまわし…しっかりと包むみたいに抱いてくる。

なぜ、そんなことを、するのかと…思った。

「少し、休んでこーぜ?な?ここ座ってろよ、オレ、あったけえもん買ってくるから」
「……いい」
「いーから、いーから!」
「……なんで、きさま…」
タカオが、オレの額に唇で…触れた。
「おまえ…なんか、怖ぇモンでも見たみてえだった」
「こわ…い…?」
「ちっちゃな…すっごく小せぇガキに戻っちまったみてえな顔してる…今…」
「……戻った…?」

……木ノ宮の唇が、揺れている…

違う?……オレの身体が…ガタガタ震えてるんだ…?
………なん…だ?

「カイ、休んでこうぜ?な?」
「……いい」
「いーから」
「いいんだッ」
なぜか、カッとして…突き飛ばしたら
「カイッ!!」
逆に思いっきり抱き締められて
珍しくタカオが…もっと大声で怒鳴り返した…
「カイッ!!!オレの言うこと、聞けよッ」
「うるさいッ放せ!!」
「嫌だッ!!離すもんかッ!!ぜってぇ離さねえッ!!」
「ン、んん…ッ…」
ベンチに組み敷かれて…噛みつくみたいに…舌で舌を嬲られて…
息が…出来な…
「タカ…オ…ッ…」
何なんだ、おまえ…

何なんだ…あいつは…
憎い。
だって苦しくて寂しいから。
オレは…オレのためにも…すべて憎まないと…
目に映る何もかも…触れるものさえ…みんな…遠くなってしまったから

あの瞬間から…

「カイッ、なぁっカイッ」
「オレにッ触るなッ!!もう…誰も…ッ」
「なに言ってんだ!!ダメだッカイッ!!」
「ん…ッ…ンン…」

なん…だ?
オレは…どうなった…?

「ンッ…ぁっ…」
「カイ!カイ!!どこにも行くなよッ!!」

ふと…コイツの体温で…
自分の身体が…凍るほど冷たくなってるのに…気がついた…

「…ッ…ぁ…」

何度も何度も、
息が詰まるほど抱き締められて…キスされてる…

「どこにも…行かせねえからッオレが」
「木ノ…宮…?」

コイツの…喰いつくみたいな視線を見たら、
一瞬どっかに行ってた自分が、戻ってきた気がした…

「タカ…オ…?…タカオ…」
「カイ?!……カイ!!」

悲鳴みたいなコイツの声の後に…噴水の水音が…聞こえてきた…






「あーびっくりした〜…」

ひとの上に乗っかって、タカオが大息ついている。
いや、それは…どちらかというとオレのセリフのような…
バカみたいな怪力で、オレを敷くな。

「おまえ…また何か、おかしくなっちまったかと思ったぜ…」
また…って何だそれは…
「ったく〜も〜おまえはァ…いっつもヒヤヒヤさせやがって」
肩や背を撫でた手が、最後に頬を包んできて
軽く唇を重ねて
それから、着ていた上着を脱いで、オレの胸に掛けた。
「ここ座って休んでろよ、な?」
「………」
「カイ?」
タカオが、かじかんだ小さな子供の手でも、あっためるみたいに、オレの両手を重ねて握った。
「………」
べつにもう…痛いとは感じなかった。

……変だな。
それほどとは、思ってなかった。

あれは…たぶん、オレが幸せだった最後の日。

失踪する前の晩に…あいつが、
オレを…あのアクアリウムに…連れていった。
それまで…いくら頼んでも、忙しいからと、一度も連れてってもらえなかったのに。手をつないで、あのディープブルーの海を見た。
その翌日、あいつは、出て行った…

それを思い出した…だけだったのに…


「だいじょーぶ!すぐ、あったまるから!」
上着でくるんで…ポンポンと、タカオが、オレの背中を叩いてる。…今、さぞかし情けない顔をしてるんだろうなオレは…と思ったら、

あの男が出て行った日の感情が、ぜんぶ一気に込み上げて、おかしくなったんだと気がついた。

もうすっかり忘れてしまうほど、過去。むしろオレの一部になっていた…
…今さらだったのに…そんなもの…
オレの中で、とっくにケリはつけてある、…はずだった。そう…思ってたのに…

「カイ?」
「ああ」
「オレ……おまえのこと、好きだから」
「木ノ宮?」
「大好きだから!…この世界に在る、どんなものより…愛してるから…!!どんなものより…大事にするんだ!!!…な?」

オレの目を、まっすぐ視て


何を言うのかと…思った…


また…夏みたいに…タカオが笑った…。






「…なーんか肉のが良かったけどな〜これしかなかった」
自分で言った通り、すぐに戻ってきた奴が
紅茶とホットクレープを差し出すから、一口かじったら、モチモチした生地の中からアップルシナモンが、じわっと広がってる。ダージリンの湯気が顔にかかったら…少し…身体が温まった。

「カイ?」
「ああ」
「ん…好きだぜ?カイ」
「それは…もうわかった」
「そっか。でも…忘れんなよ?」

横に座った奴が、顔を覗き込んでくる。そのまま、ずっと視てるから、
「…ああ」

小声で…返事しといてやった。

「よっしゃ!」
「……」


なんだか…静かだ。

白いコンクリートに反射する陽射しが、穏やかで柔らかい。

タカオと…タカオの匂いのする上着にくるまって…
少し、ぼんやりしていたら、

「…?」
足元に、生暖かい息がかかった。フンフンとしばらく嗅いでた毛玉っぽい生き物が、ぴょん、と膝に飛び乗ってくる。タカオの上着のうえで、毛繕いなんか始めだした。

「ネコ…?」

タカオが、見てる。
毛玉も、見てる。
互いに、うんと大きな、金色と茶色の瞳がぶつかって。
毛玉が、ニャア!と鳴いたら、タカオが、

「あ〜、なんだよオマエ〜っそこ、オレんだろ〜!」
もっとデカイ声を張り上げた。

………?ああ?悪かったな。きさまの上着が…
「カイのヒザなんて、オレだって乗ったことねえのにっ!!おまえ、勝手に乗んなよー!!」

……………。…いや…おまえは、
いつも…オレの腹とか…腰とか…足の間とかに乗ってるだろうが…

ノラネコが伸び上がって、クレープを、じーっと見てる。
タカオも、オレを、じーっと見ている……

「カイ〜おまえ…」
「?」
「いつから、ノラネコ好きになったんだよ〜?前、違ったくせに〜」

いったい何に嫉妬してるのか…妙にからんだ視線と口調で…
言われれば、まぁそうだ。

自分が…家を出てからかもしれない。

こいつらも、帰る場所が無いのか…と思ったら、
なんだか似てる気がして…
目が合うと…素通りできなくなってしまった。

「ふーん。じゃあ、おまえらはカイの仲間か?」
木ノ宮が、ぶらん…と両手で猫をぶら下げた。
「んじゃオレの仲間でもあるのか〜。ん〜?なーんか違うよなぁ。えっと…ご親戚の方々?」
…いや、そっちのほうが違うだろ。
「仕方ねえなー。じゃあ、これ、オレのオゴリな」
タカオが、

「けど、いいか?カイは、やんねえからな?カイは、おまえらノラネコの仲間じゃなくて、れっきとした家ネコなの。しかも血統書付だぜ?」

わけのわからん念を押してから、残りのクレープを、猫にやった。



「時間、余っちまったな…」

ベンチの背にもたれて、伸びた前髪が空を仰いでる。オレのクレープをやったら、それをかじって少しぼんやりしている。
噴水の音に混じって、どこか遠くから、まだ練習中らしい…下手クソなウグイスが、たどたどしく鳴くのが聞こえてくる…。

しばらくして、

「…観覧車、乗りに行こっか?」

急にまた、ワクワクした瞳が、こっちを見つめた。
「な、行こうぜ?」

オレが黙っていたら、

「行こうぜ?」

もう一度、タカオが言った。

だが今度は、笑っていなかった。
それでも何か、ひどく真剣で…優しい色が滲んでた。

「カイ?……平気だよ。オレがいる」

それでも黙っていたら

「何回だって連れ戻す、…って言ったろ?オレ。だから…だいじょうぶだぜ?」

勢いよく立ち上がって、手を出すから…


少し、迷ったが


その手を掴んでみた。





「うっわ〜並んでる、並んでる〜」
湾の近くにある…日本で何番目かに高い、ゆっくり回る巨大建造物のほうを指して、タカオが笑った。
「すっげー行列。けど、おもしろそーだし!」
最後尾についたら…またカップルと親子連ればかりで…なんとなく、どうしようかと思っていたら…タカオが、すぐに肩に手をまわしてきた。
「おい…」
「だいじょーぶだって。わかんねえよ」
自信満々に、片目をつぶってる。
なにが大丈夫なんだか。コイツの言い分は、いつもよくわからないが

どうせ…離そうとしても離さないから
今は、それで…いいような…気もした。

一時間以上待つ間、タカオは、ずっと喋っていた。他愛ないことばかりのくせに…。いつもオレにつき合って公園を散歩する時みたいに…
オレが歩いてる横で、コイツはいつも橋の欄干の上に飛び乗ってたりするんだが…それでもオレが転びそうになるたび、とんできて、すぐ支えて…それから何事もなかったみたいに、また賑やかに喋り続ける…
その間中、柔らかい視線で、しょちゅうオレを見てるから…孤独にもならなかった。

本当に…大丈夫なんだろうか?

嫌なんだ。
本当は…
こいつに…乗るのは…

やっと順番がきて。
前に立つと、
タカオが手を添えて、オレを先に座らせた。

……と思ったら、


ヤツがいない??

「木ノ宮?」

どこ…行ったんだ……


…消えた?!…おい…??!


ガタン、と動き出している。

独りで…乗るのか?…コレに?
………冗談だろ…

また…
あいつと一緒だった時と、まったく同じに

そうなるのかと思ったら…

とっさに。
目の前が真っ暗になるほど焦って、
後先も、見失って



飛び下りかけた…



「おっとォ!」

突然、タカオが飛び乗ってきて、グラリと傾いてる。
「危ねーよ、カイ〜っ!!落ちるじゃねえか〜!!」
「…どっちがだッ」
「いやオレは落ちても平気だけど。おまえ、今、落ちたりしたら、せっかく良くなってんのに、また大変…」
「……きさまが……」
「えっ?…えっと〜…悪ィ!チケット落としちまって…」

半券をピラピラさせながら…あっけなく苦笑してる…。

「………」

「ンな驚くなよ〜オレがどこ消えるってんだよ?だいたいオレが誘ったんだぜ?おまえを独りになんか、するわきゃねえだろ」
下で慌てる係員をしりめに、さっそく向い側に座ってる。

そうだ…。コイツは…
あの男みたいに…会社から突然、呼び出されて、いなくなったりはしないし。
失踪だって…するわけがないんだ…

……………。

「カイ?」
「……」
「カイ?どうしたんだよ〜なぁ!悪かったって」
「……」
「機嫌悪ィ?それとも…また気分悪いのか?なぁ?」
「……」


なんだ?

なんだか……急に……腹が立ってきた。


いちいち、まぎらわしいんだ、きさまは…



「カイ〜?」
「……うるさい。景色でも見てろ」

「じゃあ、一緒に見ようぜ!」
「見てる」

「なぁカイ!」
「今度は何だ」
「あのなー」
一度、向い側に落ち着いたくせに、
「やっぱ、オレ、こっちがいーなー」
立ち上がって、同じ側に移ってきた。

なんだコイツ?オレに、反対側へ行けというのか…?

と思ったら

「はぁ?!…も〜っ、なワケねえだろぉ」

隣に、くっついてきた。

肩を…抱き寄せられてる…。

「こぉするためなの!」
「………」

だんだん足下に街が広がって、
湾岸が、一望に見渡せる…。

銀色のホットケーキみたいな…バトル会場も、よく見えた。
「見ろよ、カイ。屋根、直ってるぜ!?」
タカオが指さして笑った。
「おまえはいいかもしんねえけどさ。修理代、請求されたらオレ、大変だったよな〜」

そのまま…

顎を捕らえて…唇を寄せてくる…!?
「カイ…」
「木ノ宮ッ……隣から見えるっ。というか、きさま、外を見ろ!外を!!」

なんのためにコレに乗ってると思ってるんだ…
ったく…すぐに触ろうとして……油断もスキもあったもんじゃ…

「……じゃあ、一番、てっぺんに来たときな!」
「………」

何がてっぺんだ。死角を狙うなら、むしろ真横にきた時だろうが…
…?…いや…違う…オレとしたことが…

それでも懲りずに触ってくるから…
とりあえず寄りかかって
肩に頭をのせといてやった。
「エッヘヘ〜」
オレの肩と手を、しっかり握って。タカオが満足そうに笑ってる…
「オレ、ずーっとさ、…こういうの、やりたかったんだ〜おまえと!」

ふん?相変わらず、妙なヤツだ。
騒々しいし…


……?


なんだろう?

……とても似てるのに。

あの時とは、少しずつズレていく…

木ノ宮が…ずらしていくのか…


一緒に、だんだん、高くなる。

二人だけの…まるで…

空中に浮かんだ個室だ。

昔、直前で仕事に呼び出されて、いなくなった男のせいで…たった独り乗せられたとき、
あまりに広くて、寂しくて、牢獄みたいだと感じたが…

そんなことは…なかった。

ちょうどいい狭さと…くっついたままの体温。

窓の外には、

湾の端に、陽を反射した白い燈台が、きらめいて

その先に、外海が広がっている。


あとは、空、空、空…


ガクン、と揺れて、


最高点に来た瞬間。


一瞬だけ、止まって、


青い海と空だけになって。
ここより高いものは、なにもなくなって…



明るくて眩しい透明なブルーの光の中で…

「…ん…」

タカオが、唇を重ねてきた。

「…ぁ…ッ…」
「ン!」

やけに甘ったるくて。
長いような短いような。


でも実際は一瞬で。

昂って、愛しくて、ずっとこのままでいたいのに…
終ってしまうのが、ひどく、もったいない…

……ちょっと…コイツとのバトルの時に似てると思った…。

「エッヘヘッ!こういうの、やってみたかったんだー!カイと!!」

オレの顔を抱き寄せて、タカオが、幸福そうに笑ってる。

「いつまで、オレを抱えてる気だ?」
「ん〜できれば一生!」
「……」

気がつくと、
いつのまにか…

…身体が…静かに暖まってる…

それから、また、二人で景色を眺めて。
タカオが、オレを抱き寄せたまま、
賑やかに、あちこち指さしては騒いで…

もうすぐ地上に着く頃、
記念撮影したいなら立ち上がって備え付けのカメラに目線を合わせるようにと、電子音声がガイドしてきた。
「カイ、ほら、早く早く!!写真撮らねえと!!」
「お…おい…」
むりやり引っ張って立たせるから。フラッシュが光る瞬間、よろけて、唇と唇がくっついた。


「わっははっ!イイ感じー!」
出口で、千円払って引き取った写真を、
「ぜってェもう、ただのトモダチに見えねえし!!」
恥ずかしいことを言いながら…大事に封筒にしまってる。
「そんなもの…どうするんだ」
「飾っといて、毎日見るに決まってんだろー?」
「……」

ヒマな奴だ。ベッド上のフレームに入れる気らしいが……待てよ…
…あんな所に放置したら…他の連中に…

「おい、貸せ!!」
「ダ〜メ!これ、オレんだし。カイも欲しいなら、もう一枚、買ってこいよー!!」
「きさまが持ってるとロクなことにならんっ!!」
「やーだよー。へっへー!」

二人で写真を奪り合ってたら…

周りの視線が集まって…
よけいに恥ずかしくなってきて…諦めた…。


いいか…コイツとは…いつも…こんなだった…



「次、どこ行く?」
降りぎわにもらった赤いビーンズを食べながら、
「……てか、腹減ったな〜オレ」
タカオが言うから…

「………」

ふと…
連れてってみようかと、思いついた。

あいつの、嫌いだった所へも。


今日は、ずっと…オレの過去を、遡ってるようだったから…。
いや、この先も…このままでは…たぶんオレは…

だから、
そうしないと…いけないんだろう。

…オレは、オレのためにも…

この迷宮を抜けないと…
コイツの場所へ…たどり着けない…

タカオの待つ居場所へ…
オレの…帰れるところへ…


ほんとうに生きたかった…暖かい場所へ


だから…オレは…



抹殺したはずの、
あの男の想い出を…もう一度、探してみようと…思った…。




■to be continued■