「最近…けっこー笑うようになってきたって…思うんだけどな〜」

木ノ宮が、オレの枕元に頬杖ついて、そんなことを言った。

オレは…口をきくのが億劫なので、視線だけでコイツを見上げる。
右目が、包帯に遮られて、暗い。だがコイツの、動作だけなら…なんとなくわかる。

木ノ宮は…少し開いた障子戸から、青空の切れ端を、どこかボーッと眺めている。


―――笑うって、誰がだ。

と聞いてやろうかと思ったが…結局、やめた。
どうせ、オレのことじゃない。そんな余裕もない。
今は…身じろぎするのも辛い。そうやってもう10日以上も…コイツの部屋のベッドの中で…全身が重く熱を膿んでいる。
「……ッ…」
「カイ?!」
うっかり噛み殺しそこねた…嫌な悲鳴を上げてしまったら、遠くを漂っていた視線が反射的に戻ってきた。

「お…おい!?カイ?!…しっかりしろよ!!どっか痛むのか?!それとも…」
「……違う」
「キズ…苦しいのか?!なあ?!カイ…」
「だから…違う」
「大丈夫なのかよ?!ホントに?」
「……ああ」
動転したカン高い声が、少しだけ静かになった。
「……なら、いいけど……。そうだ、おまえ、クスリ!オレ、今、水持ってくるから…」
「木ノ宮…」
「え?」
「あまり、かまうな。どうせ、たいしたことは…ないんだ」

少しイラついた声を出したら。
木ノ宮は、一瞬、迷った顔をして、それから、上げかけた腰をまた下ろして。オレの頬に、いつもよりずいぶん冷たく感じる手を置いた。
「じゃあ…オレ、ずっとここに、ついてるから」
「世話を…やくな」
「何かあったら、ちゃんと言えよ。欲しいものとか、して欲しいこととか…。な?カイ?」

優しい響きだ。コイツの、いつもの…
触れた手が、ひどく気持ちいい。
なんとなく…楽になった気がして、オレは小さく息を吐いた。


………結局…


…戻ってきてしまった……。…コイツの許へ。こういうのを、元ザヤっていうんだろうな…と思ったら、なんだか我ながらバカバカしくなってきて…タメ息が出そうだった。


だいたい…
ヴォルコフとBBAの一件が片付いたら、とりあえずまた、姿を消そうと思っていたのに。最終試合の直後、タカオに引きずられて、コイツの家まで来てしまった。それでも、すぐに出て行くつもりだったのに。戦勝祝いのお祭り騒ぎに巻き込まれ、途中で抜け出そうとしたら、木ノ宮が、後ろからついてきた。

コイツは…いつだってオレの気持ちなど読めないくせに。…こんな…とき…に…

「どこ行くんだよ、カイ…」
吹きさらしの渡り廊下の上で。月明かりに、少し大人びた影をひく瞳が、オレを、じっと見つめていた。
「また…オレに黙って…どっか行っちまう気なのかよ…」
その真摯な勢いに、息苦しくなってきて、急いで背を向け、離れようとしたとき、
「カイ…!!」
手を…取られた。ふりほどこうとして、なぜか出来なくて、俯いたまま突っ立っていると、
「オレ…ずっと…待ってたんだぜ。ほんとに、ずっと…」
「…………」
「来いよ、な?」
いきなり、くったくない、いつもの声で微笑まれて。

つい…突っ張っていた力が、抜けた。

それから、コイツの部屋で…今回の戦いのこと、ベイのこと、これまでのこと、これからのこと…。部屋のイスに反対側からまたがって興奮して喋りまくる木ノ宮を眺めていたら、あっという間に夜が更けた。いつも以上に有頂天に、はしゃぐ木ノ宮に…夜半すぎまで付き合ったのは、憶えている。
「泊まってくんだろ?」
その後、あたりまえみたいにヤツが笑って。
それに、オレは黙っていた。
本当は、すぐに、ここを出るべきだと思っていた。そろそろ限界なのも、わかっていた。なのに、オレは、黙ったまま頷いてしまった。
まだもう少し、もつと、読み違ったからだろう。……自分の体を、過信した。
布団を敷くから、と木ノ宮が部屋を出ていった後。
急に、気が遠くなって。
次に気がついた時。
オレは、それまで座っていたはずの、ヤツのベッドに寝かされていて。枕元に張りついた木ノ宮が、ほとんど半狂乱ぎみにオレの名を連呼していた。道場での宴会騒ぎに疲れ果て眠ったはずのヤツらまで、オレの周りをバタバタ取り乱し…レイやマックスの慌てた大声が飛び交っていた。
「どうした?」とオレは木ノ宮に、ふつうに聞いたつもりだ。
「バカか、騒ぐな」とも言い置いて、すぐに起き上がろうとした。


障子の隙間からは、相変わらず、小さな青空だけがのぞいている。
「あんときは…もう…すげぇ、びっくりしたけど…」
タカオが、オレの額に、冷えたタオルを取り替えながら、ほんの少しだけ笑った。
「今日は…だいぶ…落ち着いたよな。ちょっとは顔色もいいし」
たぶん、そうなんだろう。意識もあるし、昨夜までにくらべたら、ずいぶん楽になっていた。
「一時はどうなっちまうのかと思ったけど…本当…良かったぜ…」
いつもバカみたいに元気な瞳が…まるで涙を呑み込んだ笑顔で揺れる。

なんて…顔をする…。
きさまに、そんな表情は似合わない。
オレのために、そんな顔をすることはない。

そう言ってやりたかったが、……結局、オレも…黙ってしまった。


自分が、木ノ宮の部屋で倒れたらしい、とハッキリ自覚したのは、しばらく経ってからだ。あれから、ほとんど意識がなかったし、やっと目覚めたと思ったら、今度は高熱と激痛で、縫いつけられたみたいにベッドから動けない。息をするのも精一杯で、医者を呼ぼうと騒ぐタカオを、引き止めるのに苦労した。
疲労と、傷のせいだ。しかし、たいしたことじゃない。昨日も医者にそう言われたばかりだ。…と、木ノ宮には最初に言っておいた。
たしかに、一度、病院には担ぎ込まれている。医者はオレに、半年は静養しろと言っていた。できればベイをやめろとも言った。続けていれば、いずれ死ぬだろうとも脅された。
本当は…長いこと蓄積していたダメージが、時限式の爆弾みたいに、オレの身体を破壊したんだ。
もしかすると、オレはもう二度と…以前みたいには戦えないのかもしれない。
だが、そういう一切を…木ノ宮には、知られたくなかった。

「カイ?おい、カイ?!」
また少し、歯を食いしばって眉根を寄せたら、木ノ宮が慌てて覗き込む。オレは、必死に苦鳴を呑み込んで、極力バレないよう、そっと息だけ吐き出している。こんなことなら、独りになって、ガレキの片隅にでもうずくまり、思う存分のたうちまわるほうが、よほど楽だった。

そう、思うのに…

「カイ…頑張れよ。オレが、ついてるからな」
栗色の、大きな瞳が額に近付いて。似たような大きさの手が、オレの手を、しっかり握って。抱き寄せるように、オレの肩を包んだら…不意に、痛みが柔らいだ。

……どんな冗談だ。なんの魔法だ?
どうせ、気のせいに決まっている。

気のせいに……きまっているのに…


障子戸の向こう…濡れ縁の先から、鳥の声と一緒に、穏やかな空気が漂うように流れてくる。
今日は…朝から、静かだ。
オレたちの他に、屋敷には、珍しく誰もいない。なにかというと合宿所になる騒々しい家だが、今朝は、BBA再建のため、会長から直々に人手を要請されて、出払っている。
「おまえは行かなくていいのか?」とタカオに聞いたら「おまえが具合い悪ィのに、行くわけねぇだろ」と即答された。
昨夜までは、レイもマックスも、他の連中も…交代でこの部屋に寝ていた。木ノ宮は…ちょうど今みたいにオレの包帯だらけの手を握って…ずっとそばに、ついていた。いつ目が覚めてもコイツがいるから、こっちが心配になってきて、「いいから、もう寝ろ」と言ってやったら、「ああ」と笑って、そのままベッドに突っ伏して眠っていた。オレの手をしっかり握ったまま……寝言で…オレの名を呟いていた。
ひどく子供っぽい…それでも…優しい声だった。


ふと…
縁側からこぼれてくる、細い光に目が眩んで、

「木ノ宮…」

と呼んだら、
「どうした?カイ?」
すぐに、応えが返ってきて。そこでオレは……つい…用もないのに呼んでしまったことに、気がついた。
「どうしたんだよ?」
「………」
気まずい思いに少し焦りながら、仕方なく黙っていたら、タカオは、ニッと笑って、
「カーイ?」
握った手に、ぎゅっと力を入れてきた。
熱のせいで、とても冷たく感じる…。
だが、ひどく、暖かい。
ほかのどんなものよりも…不思議な安堵を含んでいる…。

この手に……何度救われたか、わからない。
この手がなければ…オレは、とっくに死んでいた。大嫌いな男どもに身も心も売り渡したまま、暗い湖底に沈んでいた。
あの、神を自称する男にだって……きっと…勝てなかった…。

この手が、救い上げてくれなければ。



「カーイ…おまえ、今日、ほんと…元気そうだぜ」
久しぶりに、木ノ宮が、笑った。
「きっと、良くなってきてんだな」
崩れない笑顔のまま、言葉が弾んでいる。それも久しぶりに聞いた。いつもテンション高いコイツが、極限みたいに落ち込んでいたから。
「あーもう〜ホッとしたぜ。オレさ…マジで…」
そこで、
声と瞳が、また歪んだ。
「…おまえが死んじまったら……どうしようかって…」

もう…どうしようって…。

そう繰り返す瞳から、今にも雫がこぼれそうに見える。

「木ノ宮…」

だから、やめろ。
きさまに…そんな顔は、して欲しくない。
オレのために、悲しむ必要なんてない。

だからオレは、急いで言った。
「いらん心配をするな」
「カイ?」
「少し…疲れただけだ。たいしたことはない。…何度も言わせるな」
「だけど…おまえ…」
「きさまとの約束も果たしてないのに…オレが、死ぬわけがない」
「……カイ」
ちょっと驚いた顔をして。それから、
「そっか……そうだよな」
ひどく照れたように、相手が笑った。

庭木の枝に、さっきから小鳥が行ったり来たりしている。その小さな影を眺めながら、ポツンと木ノ宮が呟いた。
「なぁカイ、おまえが元気になったらさ…」
「……ん?」
「海とか、山とか〜…すっげー気持ちのいいトコ行こうぜ」
「何しに」
「え?えっと〜何でも。何だっていいぜ、オレ。二人で行けるなら。…けど、やっぱそういうの…ダメか?なら、えっと…バトルとかでも、いいけど…」
だんだん、どもりながら、声が小さくなる。オレは、何だか可笑しくなってきて、目を閉じたまま、
「…好きに…すればいい」
と言ってやった。こういうオレの言い方が、同意だということを、コイツは長年の付き合いからよく知っている。
「マジ!?あっははーっ、楽しみだなーオレ」
とつぜん雲間からおりてきた陽射しみたいに、木ノ宮が笑った。
その声が。
今度は、あんまり幸せそうだったから。
オレは…なんだか胸が痛くなりそうだった。

ほんとうに、痛い。

キズの痛みでもないのに。

あんまり痛むから、それを隠そうとして。オレは、むりやり起き上がろうとした。
「お…おい…大丈夫かよ」
慌てた腕が、すぐに背を支えてくる。全身が軋んでバラバラになりそうだったが、胸の痛みに比べたら、それでも少しはマシな気がした。
「……ああ。今日は、気分いいしな」
「そっか…」
「暗いところで寝てばかりいると…病人みたいで気が滅入る」
「……病人じゃねぇけどケガ人だろ。ホントに大丈夫かよ」
「ああ」
「じゃあ…もう少し…開けようか?天気いいし」
木ノ宮が立ち上がって、障子戸を、引いた。細かった青空が、いっぱいに広がる。
いっせいに、なだれこむ光が……なんだか木ノ宮みたいで、好きだと思った。
真っ白い洪水のような輝きが、強く煌めいて、あまりに眩しくて……何も見えなくなる。
「カイ!?おいっカイ!?」
少し遠くで声がして。また、あの手が…今度は、オレの肩ごと抱き留めた。
「カイ!?おまえ…やっぱり…」
「……ああ、悪い。……大丈夫だ」
フラついた上体を、すっかりコイツに預けて。たまには、それもいいかと思う。たんに体が辛くて、動けなかったからかもしれないが。
顔を埋めると、木綿地のシャツにジャケットを着込んだ胸は、明るい陽射しの匂いがした。
いつもコイツの胸は…初夏の風や、柔らかで爽やかな陽射しや、澄んだ強い青空や…美しい青葉なんかを…思い出させる。

こんなにも優しくて明るいものが、この世にあるなんて、それまでオレは…知らなかった。ここは、極寒のロシアとは、違う。オレの育った、だだっ広くて人は大勢いるのに底冷えのする火渡の屋敷とも、まったく違う。まるで夢の深みの、温もりだ。

コイツといると…あまりに心地よくて。

あまりに幸せすぎて……。


ときどき……オレは…



本当に、オレは……





「カイ…?もしかして…眠っちまったのか?」

ベッドの上で木ノ宮に抱かれたまま、うとうとしていたら…上から声が降ってきた。
コイツにしては、静かな声音だ。
目を閉じたまま、それでもじっとしていたら……本当に眠っていると思ったらしい声が…
吐息みたいに、小さく聞こえた。

「…カイ…、オレ…いつだって、おまえを信じてるし…。おまえの気持ちは大事にしたいから…いつも、おまえの邪魔はしたくねぇって…思ってるけど。でも本当は…いつも不安で…おまえがいなくなる度に、おまえのことばっか考えちまって…いちいちショック受けたり悩んだり…ホントに情けねえほど…」

……はぁ。と頭上で、なんだかとても困った、どうにもならないタメ息が、長く尾を引いた。

「カイ…。オレさ…本当は…おまえと、ずっと…」

少し思いつめた声が、瞼のあたりから、熱を帯びて伝わってきて。そうして、風よりも重く湿った柔らかいものが、唇に、重なってきたとき。
オレは、抵抗しなかった。

重なった唇から、伝わってきた唾液が、気のせいか…ひどく甘い味がする。

本当は、よく知っている。

今まで生きてきたなかで…コイツと居る瞬間だけが…唯一、とても…暖かかった。







それでもオレは…



どうせ死ぬなら、独りがいいんだ。誰にも見られずに。どこか遠くで。

決して…木ノ宮の…居ない所で…

凍るような冷たい場所で…



どうして、そんなふうにしか思えないのか。オレ自身にも…よくわからないのだったが…。



■to be continued■









初書きがこんな話でいいのか…いやよくないだろ…みたいな。前にやりたかったネタで途中で挫折した某物をここでやりたいという…(やっぱよくないよな〜そういうの…汗)イヤでも多分ハマると思うんだけどな…。